学海先生の明治維新
HOME ブログ本館 東京を描く 日本文化 知の快楽 英文学 仏文学 プロフィール BBS


学海先生の明治維新その卅三


 学海先生は将軍慶喜の赦免を朝廷に哀訴すべく決意するや精力的に動いた。慶應四年二月十七日には諸侯の重臣を佐倉藩邸に招き、そこで慶喜のために哀訴すべきという議案を提出して一同の賛同を得た。賛同するものは譜代大名四十数藩。学海先生が哀訴状の作成を委任された。学海先生は哀訴状を作成したうえで諸藩の連判を求め、それを持参して急遽京都へ向かうことになった。
 つい最近まで討幕勢力を賊徒と罵り兵をあげて征伐すべきだと意気込んでいた学海先生が、いまは徳川家の存続のために哀訴するはめに追い込まれた。先生の意識の中では哀訴はあくまでも天皇に対するもので、薩長をはじめとした討幕勢力、それを先生は君側の奸と呼んで蔑んでいたわけだが、その奸佞の輩に屈するものではないとの思いが強かったと思う。だが、それは先生の独りよがりで、歴史の主流はその「奸佞の輩」である薩長らの討幕勢力が動かしていたのである。
 学海先生が佐倉藩家老倉次亨に随行して江戸をたったのは二月二十日のことであった。その数日前の二月十五日には徳川将軍討伐のための東征軍が東海道、東山道、北陸道の三手に別れて進発していた。その東征軍が東へ向かって進みつつあるとき、学海先生の一行は西へ向かって進んでいったわけである。しかも東征軍が慶喜を成敗しようとしているときに、学海先生は慶喜の命乞いをしようというのである。
 もとより学海先生には東征軍にかかわるそういう事情は分からない。ただひたすら朝廷に哀訴状を奉るべく道を急ぐのであった。
 二月二十日に出立した学海先生の一行は早くも二月三十日には京都についた。先年藤森弘庵翁に随行して京都へ旅した時には、寄り道を除いた正味の期間が十五・六日かかっていたから、彼らがいかに先を急いだかがわかる。旅の二日目に大磯付近の鴫立沢を通りがかった折には、先年詩を墨書した後が残っているのを見て感慨に打たれもしたが、その感慨にいつまでも耽っている余裕はなかった。
 出発当日は浜松藩主が、翌日には宇都宮藩主が、それぞれ京都を目指して進むのを見た。おそらく朝廷に恭順を誓うためだろうと先生は思った。二十三日には静岡に泊まったが、そこで鎮撫使の一行が明後日にも静岡に来るだろうという噂を聞いた。
 ところが学海先生らはその翌日の二十四日に、松原のあたりで東征軍の先端部に邂逅した。薩摩や長州の兵隊たちが西洋服を着て小銃を背負っている。先生たちは呼び止められて誰何された。
「お前たちはなにものだ?」
「これは佐倉藩藩士にて、勅命に応じ、藩主の代として上京するものでござる。怪しむべきものではござらぬ。御通しなされ」
「なに勅命と? してその証拠はあるか?」
 そう問われた学海先生は哀訴状を取り出して、
「これは勅命により作成いたした書状でござる。これを朝廷に差し上げるべく京に上るものゆえ、是非御通しくだされ」と言ったところ、案外簡単に通してくれた。
 二十五日には、天竜川を渡るとき柳原前光・橋本実梁の両鎮撫使が錦の直垂を着て馬にまたがり、白地に菊の門を黒くつけた旗を二本かざしているのが見えた。前後に従う兵の多くは藤堂藩の兵だった。前日には紀州藩の兵が多く付き従っているのが見えたから、東征軍は行く先々で兵力を増強していることが伝わってきた。
 二十六日今切を過ぎて新居に着いたところ、掛川藩士秋山七兵衛という者が近づいてきて、
「我が藩は既に尾張藩に随属してその指揮を受けている。尾張藩は勤皇を忠誠している。したがって将軍の哀訴に加わるわけにはいかぬので、先般の哀訴状から我が藩を除名していただきたい」と言った。学海先生は倉次家老にはかってその言い分を認めた。
 その日には吉田駅で東征大総督有栖川宮一向に遭遇した。筑前の兵が多く随従し、上京する者を厳しく検問していた。先生らも呼び止められて厳しく尋問された。
「大総督の御本営に案内もなく行過ぎんとするあやしきやつ。とどまれやっ」
「拙者は佐倉藩士にて、勅命に応じ、藩主の代として上京するものでござる。怪しむべきものではござらぬ。御通しなされ」
「東の方より上らるるは徳川の家来ではなきか。通行することまかりならぬ。異議に及ばず打果たすぞ。ここに立たる錦の御旗が目にはいらぬか」
 こんなやりとりがまずあって、しばらく押し問答が続いたが、学海先生はまたもや朝廷への哀訴状を取り出して、
「拙者らは勅命により朝廷へ差し上げるべき書状を携えて京都へ向かう途中でござる。これは勅命にもとづいてのこと故、是非御通しくだされ」と言い張ったところ、相手側もそれならと納得して通してくれた。その辺は交渉に慣れた学海先生のこと、日ごろ磨いた折衝術のおかげといってよいだろう。
 二十七日赤坂を過ぎて藤川に至ったところ、駕籠の中から学海先生に呼びかける者があった。駕籠に近づくと福山藩の馬場安之助という者が出てきて、
「去る二十四日に江戸を発してここまで来ましたが、東征総督が江戸に向かうというので我輩らも官軍に合流するつもりです。おぬしらは早く西上して哀訴状を提出しなさい」と言って、哀訴嘆願の仕方を色々教えてくれた。
 二月三十日に京都へ着くと早速西村茂樹が訪ねてきて、明後日哀訴状を太政官に奉るべく相談した。佐倉藩とその支藩佐野藩のほか、小田原、上田、新庄、諏訪の各藩の家老が同道することとなった。
 しかしその翌日学海先生が上述の各藩を回ったところ、諏訪藩の留守居林魯兵衛は、
「いまや東征の厳命が行われ徳川家のために哀訴すべき余地はござらん。したがって先般の哀訴状から我が藩を除名していただきたい。新庄藩も全く同じ意向でござる」と言った。学海先生は事態がいよいよ思うようにならぬ方向に動いているのを改めて感じざるを得なかった。
 それでも既定方針通り意を決して哀訴状を太政官に提出した。同道したものは佐倉、佐野、小田原、上田諸藩の家老たちだった。太政官では弁事官参与東薗中将が応対し、とりあえず書状を受け取ってくれた。
 懸案の仕事が一段落した学海先生は、太政官からの返答を待つ間、京都にいる旧知をたずねて情報交換をしたり、また祇園に遊んで息抜きをしたりした。尼崎藩京都藩邸に赴き久しぶりに神山衛士と会った。神山は学海らの哀訴状提出の話を聞いて、半ばは同情してくれたが、哀訴状が受け入れられる見込みはあまりないだろうと感想を漏らした。学海先生もこれまでの見聞をもとに、もしかして神山の言うとおりかもしれないと漠然とながら感じざるを得なかった。
 三月九日に天皇が太政官に行幸して庶政を視察するという情報が入ってきた。天皇はこの年の一月に元服したばかりでまだ正式には即位していなかったが、実質的にはすでに天皇としての権威を内外に鮮明にしていた。
 この日学海先生は風邪の症状がひどかったが、病をおして外出した。その折の様子を先生は次のように日記に記している。
「主上、太政官に行幸ありて庶政をきこしめし給ふ。供奉の公家・武臣等甚多し。この儀仗を伏し奉むとて、病をおして堺町の辺至りて拝し奉る。初に銃隊を以警衛せらる。次に大外記あり。次に長門少将もみ烏帽子・鎧・直垂を召さる。其外皆衣冠にて供奉せるが、公家・武臣かぞふる暇あらず。仁和寺宮は御髪未だそろはせ給はず、御冠は召さず、白き御直衣にて御馬をぞ召し給ひける。山階の宮・鷹司の右大臣殿も供奉し給ふ。主上は御年十八にならせ給ふ。白き御直衣に緋の御きり袴を召せ給うふよし。これは永田太一郎の見上げ申せし也」
 十一日に小田原の留守居が訪ねてきて、今日太政官から呼び出されて伺ったところ、哀訴状に付紙を付して返されたと言った。その付紙には、徳川氏のことは東征総督が全権能を持っているので、哀訴状は東征総督たる有栖川宮に奉れとあった。なんのことはない案件をたらいまわしされたわけである。
 学海先生は早速上司の倉次亨にはかった。倉次は哀訴状に連判した在京の諸藩を急遽集めて善後策を講じようと言った。そこで翌日在京の諸藩をお池坊の仮藩邸に集めて協議した。佐倉藩としてはこれから東へ引き返して東征軍に追いつき、哀訴状を有栖川の宮に奉りたいと主張した。しかし小田原藩が同調しただけでほかの藩はみな他藩にお願いするというばかりだった。日和見を決めこんでいる様子が学海先生にはよくわかった。
 翌々日の十三日には舘林藩の留守居普賢寺武平が訪ねてきて、高徳藩主戸田大和守の意見を参考にと言って紹介した。戸田大和守によれば、哀訴状を上げるものは朝敵扱いされるであろうと言うのである。
 そこで学海先生は一人で戸田大和守を訪ね、その意見を改めて聞いた。戸田大和守は、
「武平の申すとおりじゃ。時世がここに至ったのは一朝一夕でのことではない。今や徳川将軍は朝敵であり、討伐されようとしている。それを哀訴しようとすれば将軍同様朝敵と見なされてしまうだろう。ここは哀訴状を奉るのをあきらめて、後日の策を考えた方がよかろう」 
 この話を聞いた学海先生は藩邸に戻って食次家老に報告した。倉次家老は小田原、上田両藩とも相談して、とりあえず哀訴状を棚上げすることに決めた。
 これを以て学海先生の当面の任務は完了となったはずだった。一安心した先生は小田原藩の松隈を誘って清水に遊び、咲き広がる桜を眺めて春爛漫を謳歌した。八坂の坂を下り祇園街に出て料亭に遊び舞妓と戯れたりした。
 ところが一安心する間もなく新たな事態が持ち上がった。藩主堀田正倫が去る三月九日に江戸をたって京都に向かったというのだ。だとすれば数日以内に京都へ到着する。それを迎える準備をしなければならない。




HOME | 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである