学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その四十七


 十一月の上旬、小生は公務出張で小笠原に行った。東京・小笠原間の航海は一隻の船で行っている。往復にそれぞれ二十四時間以上かかり、現地での荷の積み替えや船の手入れなどを含め、出発してから戻って来るまで六日間ほどを要する。これを一航海と称する。小生らの小笠原への出張旅行は、一航海六日間を要した。
 船は竹芝桟橋を出て一路一千キロの彼方をめざした。黒潮を横断する時には激しく揺れた。おかげで小生はすっかり酔っぱらってしまい、食事がのどを通らないばかりか、横になっていてもつらいありさまだった。嘔吐を催しても吐き出すものがない。小生はただひたすら床にへばりついていただけだった。
 父島につくとその足で町役場を表敬訪問した。町長が迎えてくれて旅の苦労をねぎらってくれた。そして傍らの総務課長に向かって、
「この方たちは大事なお客さんだから、丁寧におもてなししなさい」と言ってくれた。
 そのおかげで小生たちの一行は、町役場から過大なもてなしを受けた。無論我々はもてなしを受けるのが目的でわざわざ一千キロの海路を小笠原まで来たわけではない。やるべき仕事があったのだ。だが、ここでその仕事について語るのは無粋というものだから触れない。
 ともあれ小生らはつらい航海を償うに足るもてなしを受けたわけだ。中でも最も印象に残ったのは、小舟に乗って南島に上陸したことと、宵闇のガジュマルの林に夥しいヒカリゴケを見たことだった。南島は普段人が入らないとあって、無垢の自然を感じさせた。
 小笠原から戻って数日後、小生はあかりさんとともに鎌倉に半日遊んだ。昼過ぎに東京駅の地下ホームで待ち合わせた。彼女はグリーンがかったグレーのスーツに白いブラウスのいでたちで現われた。
 車中東京駅の売店で買い求めたサンドイッチを二人で食い、また小笠原土産とて島の石で編んだブレスレットを贈った。彼女はそのブレスレットを早速左手首に巻いて小生に示し、
「どお、似合う?」と言った。
「とても似合うよ。喜んでもらえればうれしい」と小生は答えた。
「小笠原はどうだった?」
「ああ、とてもすばらしかったよ、自然がね。でも片道二十八時間もかかったし、その間揺れが激しくてひどく酔った。食事はのどを通らないし、歩くこともできない。特に黒潮を渡るときには船が上下に揺れて、起き上がっていると内臓が飛び出しそうになる。だからずっと床に寝そべっていたよ。そんなわけでひどい目にあった。だけど小笠原自体はすごくよかった」
「船に乗っている人皆がそうだったの?」
「いや、中には平気な人もいた。僕は子どもの頃から乗り物酔いしやすい体質なんだ」
「そういえばあなた、小学校の遠足の時にもいつもバスに酔って青い顔をしていたわよね」
「ああ、でもよく覚えているね」
「わたしって、記憶力はいいのよ」
 あかりさんはそう言って我々が子供時代に一緒に過ごした共通の時間に思いをはせているようだった。
「小笠原では何をしたの?」
「無論仕事さ。遊びに行ったわけではないからね」
「でも仕事ばかりしていたわけじゃないでしょ」
「そりゃそうだけど。釣りもしたよ」
「なにがとれた?」
「青い魚や黄色い魚が結構かかった。船釣りをしたんだけど、船頭が穴場に連れて行ってくれて、ここで糸を垂らせば面白いほど釣れると言うんだ。たしかに面白いほど釣れたけど、ほとんどは食ってもうまくないやつで、外道といって捨ててしまった。でも一匹だけヒラマサが釣れた。それは持って帰って、現地の人にさばいてもらってみんなで食べた」
「小笠原の人たちは主に魚を釣って食べているの?」
「まさか。魚も食べるだろうけど、ほかにもいろんなものを食べているよ。もっとも、食料を含めて自給できるものが少ないので、多くの部分を内地から運んでいる。僕らの乗った小笠原丸でね。この船は小笠原の人たちにとっては生命線のようなものなんだ」
「今回はどんな用事で小笠原に行ったわけ?」
「まあ、小笠原の復興にかかわることとでもいうのかね。小笠原はまだ自立できていないので、都で色々と面倒を見てやっているんだよ。だから各局の担当者がいつも大挙して小笠原に出かけているんだ。今回も我々のグループのほかに、各局から大勢の役人が島に乗り込んでいた。各局にとっては、小笠原復興にかこつけて公務出張できる名目がたつし、小笠原の方では都から手厚く面倒を見てもらえる。というわけで小笠原復興は都の役人にとっておいしい仕事になっているんだ。だからどの局も理屈をつけて小笠原の仕事にかかわりを持とうとする。実際ほとんどの局が小笠原にかかわっているんだ。かかわりのないのは交通局と清掃局くらいじゃないかな。その交通局にしてもポンコツのバスを無料で譲与してやるといって、かかわりの手がかりを見つけようとしている。それほど小笠原は人気があるのさ」
 我々は北鎌倉で下り、東慶寺の境内を散策した。裏手にまわり、斜面に沿って展開する墓地を歩きながら、西田幾多郎や和辻哲郎の墓を探り当てては、この墓地に封じ込められている歴史の重みのようなものを感じ取ろうとした。小生には墓歩きを楽しむ趣味があるのだ。あかりさんにはそのような趣味はないようだが、西田幾多郎や和辻哲郎のことは知っていて、それらの人々の墓を見るとやはり懐かしい気分にはなるようであった。
「和辻哲郎は若い頃に読んだことがあるわ」
「面白かったかい?」
「面白いっていうんじゃなくて、色々考えさせられたわ」
「西田幾多郎はどお?」
「善の研究かなんか読もうとしたけれど、むつかしくて、何が書いてあるのかよくわからなかったわ。私の頭がわるいせいかしら?」
「ぼくにもよくわからなかったから、別に気にすることもないさ」
「頭のよいあなたでもよくわからなかったの? でも、この東慶寺っていわゆる駆け込み寺でしょ? 尼寺なのになぜ、哲学者たちの墓が多いのかしら?」
「それも僕にはわからないな」
 次いで明月院に赴き、裏手の山に分け入って行った。そこは天園というゆるやかな尾根道になっていて建長寺の裏手に続いている。山道では誰にも出会わなかった。我々は時折立ち止まっては抱擁しあった。
 建長寺の裏山からは鎌倉の市街を遠く望むことができた。その裏山を下りて建長寺の境内に入った。そこから更に鶴ケ丘八幡宮に向かおうとも思ったが、そのまま北鎌倉に引き返すことにした。品川あたりのホテルに入ってしばしくつろごうと思ったのだ。
 我々は品川で下り、プリンスホテルにシングルルームをとった。部屋に入るとベッドの上に並び坐してとりとめのない話をした。そのうちあかりさんが、
「あなたはもうすっかり恋人気取りなのね。まるで当たり前のようにわたしを誘惑するんだもの」と言った。
「好きでたまらない異性を誘惑したいと思うのはごく自然な感情さ」
「誘惑にもいろいろあるわ。なにもホテルに連れ込むだけが誘惑とは言えないわ」
「男女が誘惑しあったら、ホテルに行きたくなるのは人情じゃないのかね」
「もっと違う誘惑の仕方、たとえばプラトニックな誘惑だってあるはずだわ」
「プラトニックと言うけど、その元締めのプラトンにしてからが身体的な愛を追求していたんだ。もっとも彼の場合には今でいうゲイだったわけだけど」
「そこまでは知らなかったわ。プラトンの師のソクラテスが同性愛者だったということは知っていたけれど」
「プラトンもソクラテス同様若い男を抱くのが好きだったんだ。だからプラトニックラブと言うのは本来男同志の同性愛を指す言葉のはずなんだ」
「それが何故精神的な愛をさすようになってしまったのかしら?」
「僕もそこまでは知らないな。ただ僕らの間では、どちらにしてもプラトニックな愛はふさわしくないようだね。男女の愛はやはり性愛でなければならない」
 そう言って小生はあかりさんを強く抱き寄せ、彼女の顔に自分の顔を押し付けたのであった。そして顔を引き離すとそのまま彼女の服を脱がせてやった。続いて自分自身も裸になった。一糸まとわぬ姿でベッドの上に並び坐した我々の姿が部屋の鏡に写し出されているのが見えた。小生は彼女をベッドの上に横にならせ、彼女の腹の上におおいかさなって、肉の交わりに励んだ。これこそが男女のあるべき愛の姿と言わんばかりに。彼女の肉が自分の肉に触れあいながら波打つさまがよくわかった。この時も学海先生に見られていないかどうか、周囲を確認することを怠らなかった。
 性交後我々は一緒に風呂につかった。狭い湯船なので、小生は彼女を自分の膝の上に抱きかかえながら湯につかった。彼女は小生の肌を見ながら
「わたしと同じ肌の色なのね」と言った。そしてすこし腰を浮かせながら、その下にある小生の男根をつまんで引っ張り出そうとした。しかし小生の男根は残念ながらそう長くはない。彼女の臀部の下に不機嫌そうに納まっているだけだった。
 ホテルを出たあと、駅前のレストランで食事をした。
「今日は楽しかったわ。でも、こんなふうにずるずる付き合っていると、なにかよくないことが起りそうで不安だわ」
 あかりさんはナイフとフォークを使いながらしんみりとした様子でこう言った。そして小声で、
「私たちのしていることは姦通よ、夫に知れたら串刺しにされても文句を言えないわ。そうなったらあなたどうする?」
「君と一緒に串刺しにされるなら光栄だ」
 小生はそう言って当座をごまかした。あかりさんもそれ以上は踏み込んでこなかった。
 食後我々は品川駅から横須賀線の快速電車に乗り、新小岩駅で別れた。あかりさんはその一つ先の小岩で下り、小生は船橋で下りるのだ。




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