水彩で描く東京風景
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寛永寺:水彩画・東京風景



寛永寺(26×36cm ワトソン 2006年7月)


江戸切絵図などで見ると、かつて寛永寺は上野の山一帯を領する大寺院だったことが伺われる。 現在国立博物館の立っているあたりが本坊にあたり、その前面、いまの噴水広場のあるあたりに根本中堂が立っていた。その前には文殊楼、吉祥閣が控え、広小路へ下っていく坂の下には黒門があって、一山への入口となっていた。また、本坊の東西には多くの塔頭、子院が並んでいた。上野駅の駅舎や線路敷地、芸大や上野高校などみなかつての子院の跡地に立っているのである。 

寛永寺は天台の高僧天海を開基として、寛永年間将軍家によって造営せられた。建立の思想はことごとく比叡山を範としている。まず方角は王城の鬼門たる東北に定められ、山号は東の比叡山を擬して東叡山とせられた。また、最澄が己の本山を時の元号に従って延暦寺とした例にならい、寺名を寛永寺とした類である。

寛永寺は徳川時代天下第一の梵刹として大いに栄えた。境内には多くの桜樹を植え、花が咲く時節には黒門を開いて庶民の観覧を許したとある。広重の絵には、揃いの傘を翳して花見に繰り出す御殿女中たちの姿が描かれている。

このような大寺にとって、運命の分かれ目となったのが、幕末の戊辰戦争であった。各地で敗走した幕府方の勢力が、彰義隊の名のもとに寄り集まって上野の山にたてこもり、徹底抗戦をしたのは慶応四年五月十五日、「君恥ずかしめらるれば臣死するの時」と、志深く戦ったものの、官軍の圧倒的な火力の前に僅か半日で敗北、二千とも三千ともいわれた隊兵は戦死或いは遁走した。上野山中の堂宇伽藍はこのわずか半日の戦いの際、ことごとく焼き払われたのである。  

現在寛永寺と称する寺は、かつて子院の一つであった大慈院が衣替えをしたものである。大慈院は徳川慶喜が朝廷に恭順を表するために謹慎した所で、寛永寺忘失後、徳川家ゆかりの川越喜多院から中堂を移築して、以て寛永寺の門跡を継がせ、徳川家累代の霊域を守らしむることとしたものである。

鶯谷の駅に近いこの寺は、それとして意識しなければふと通りすぎてしまう程ひっそりとした佇まいである。参詣する人の姿も見当たらない。墓守寺として、過去に向かい合うことを唯一の役目とした、歴史の語部のような寺である。
  




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