弘法寺(28×35cm ヴェランアルシュ 2003年4月)

春風依然として暖ならず松籟鬼哭の如し。昼餉の後真間川の流に沿ひ歩みて手古奈の畦に至る。後方の岡に聳ゆる石級を登れば弘法寺の山門なり。本堂の傍に老梅三四株ありて花雪の如し。

これは荷風断腸亭日乗昭和二十二年三月十八日の記事である。荷風は梅花に春の訪れを見ることを文人の嗜みとした。国破れて老残の身を市川の田舎の一隅に寄せたこの文人にとって、散歩の折ふと立ち寄った古刹の境内に、雪の如き花をつけた梅を見出しえたのは、大いなる慰めであったに違いない。荷風が見たであろう老梅は今は既にない。かわりにこの寺の春を装っているのは巨大な枝垂桜である。一本の巨幹から夥しい枝を延ばし、春になると人の視界を塞ぐ程に咲き広がる。その名を伏姫桜という。馬琴八犬伝の物語に端緒を与えた姫君の名である。

荷風の文にあるように、この寺に参るには聳ゆる石級を登らねばならない。息を弾ませながら登りつめると古びた山門があり、それをくぐると右手の広場に伏姫桜の巨木が立っている。天を覆う花は、雪というより霞というのがふさわしい。




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