中華街(F4号 ウォーターフォード 2003年1月)

横浜に華僑が進出したのは安政六年の開港直後からのことだったらしい。多くは広東省の出身者だった。彼らは既に西洋人と接触する機会があって西洋諸国語を話せたほか、日本人とは漢字を用いて筆談することができたので、両者の間に入って茶や生糸の取引に従事したのである。

華僑たちは山下地区の一画に関帝廟を建て、そこを中心に集まり住んだ。日本人は彼らの住む一画を南京町と呼び、当の華僑たちは自分たちの街を唐人街と称したという。だが町の周辺の角々に楼門が建てられ、町全体が整然とした姿を呈するようになるのは戦後のことである。

昭和三十年に、町を貫く大通りの西のはずれに善隣門という楼門が建てられた。絵の門である。この楼門に中華街という文字が書かれてあるのをきっかけに、以後町全体が中華街と呼ばれるようになったのである。ところで、中華街にはいくつの楼門があるのか。地図を見ながら数えてみたら、東西南北の四門をはじめ全部で十門あった。これらの楼門は牌楼と呼ばれ、その配置には風水思想に基づいた原理があるようだ。
 



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