航英日誌緒言


昨年の秋のことであった。わたくしの年若い友人が、わたくしの勤め先の近くまで来ているといって、電話をかけてきたことがあった。ちょうど昼時であったので、わたくしは彼を付近のレストランに誘って昼食をともにした。

彼は数年前に奥さんをなくし、まだ小学校に上がったばかりの小さな女の子とふたりでとり残されたのであるが、それ以来、実家の両親の応援を得ながらも、けなげに子育てをしながら生きてきたのだった。その娘もはや五年生になり、だんだん多感になってきたそうである。

その年の夏休みを前にしたある日、彼は娘に、休暇の間に何がしたいか尋ねてみた。すると、ロンドンに行ってみたいという返事が返ってきたという。なぜロンドンなのか、要領を得なかったが、かわいい娘の希望なので、費用や休暇を工面して、思い切ってふたりで出かけてみることにした。とはいっても、彼はこれまで海外旅行などしたことがなく、ましてロンドンといえば地球の裏側にあたるところであるから、果たして小さな子どもをつれて安全な旅ができるかどうか不安であった。

わたくしは、下の息子が小学校五年生の年に、息子とふたりでロンドンに旅した経験があった。いつか飲んだときか何かの機会に、そのことをこの友人に話したことがあったようで、彼はそれを思い出し、出発するに先だったある日、わたくしに子連れ旅行のコツのようなものを尋ねてきたというわけなのである。

彼は、集団で行くツアーのようなものは好まないといい、さりとて何から何まで自分で準備するのは自信がないという。

わたくしにはアドバイスといえるようなものは持ち合わせがなかったが、旅行の折に記した日誌のようなものと、旅先でスケッチした風景画帳が残っていた。そこで日を改めてそれらを、参考までにと彼にみせた。

わたくしの資料が役に立ったかどうかは、何とも自信がもてないが、彼は無事旅行を済ませ、その土産話を聞かせてくれるために、その日わざわざわたくしに連絡をくれた次第なのだそうである。そういって、彼は英国製の万年筆と旅行中の写真をわたくしに贈ってくれ、またいくつかのスケッチを見せてくれた。

写真を見ながら彼らの歩いた後をたどってみると、わたくしたちのかつて歩いたところと大部分が重なっている。わたくしは往昔の旅の思い出が俄かによみがえる心地がして、非常になつかしい気持ちになった。ビッグベンやセントポール寺院などランドマークともいうべきところをはじめ、通りの様子や公園のたたずまいなど、わたくしたちの訪ね歩いたころとあまり変らぬままに写っているのである。

わたくしたちが行ったのは、もはや十年も前のことであり、この間にロンドンにも高層ビルが増えたりして、風景はおのずから変化してはいる。たとえば、シティなど都心部の景色を、わたくしの描いたスケッチの図柄と彼の撮った写真とで比較してみれば、イングランド銀行の脇には巨大な高層ビルが加わったりして、スカイラインには大幅な違いがある。だが旧来の建物がそのまま残っていることに町の風景の連続性を認めうるのである。

彼はまた、自分のスケッチブックを示しながらこうもいうのであった。

 「このたびは娘を伴っていましたので、ゆっくりと腰をすえてスケッチしている余裕がありませんでしたが、いくつか鉛筆で素描してきたものに、日本へ帰ってきてから水彩絵具で淡彩を施してみました。先輩ほど本格的ではありませんが、旅の印象は十分にこもっているのではないかと、自分ながら満足しています。ところで、先輩のスケッチも鉛筆画のままではもったいないですね。どうですか、色をつけて、先輩の得意な画文集に仕立ててみては。」

こんなお世辞をいわれたわたくしは、こそばゆい心地がしたが、彼の広げたロンドンの写真や淡彩のスケッチ類を前にして、長く本棚の一隅に放置しておいた素描集に改めて手を入れるのも悪くはないと思うようになったのである。

わたくしのロンドンスケッチはもとより鉛筆で素描したに過ぎず、そのままではまともな絵にならないばかりか、色のメモも取っていなかったので、当日空がどんな色合いをしていて、光の方向がどうであったかなど、絵にとって肝心の情報が不十分なのであるが、それらは彼のもたらした写真や観光用の絵葉書の類でカバーできそうな気がした。

彼との間でこんなやり取りがあった後、わたくしは、あらためて当時の日誌とスケッチブックを引っ張り出してきて、彼のいうような画文集が試みられうるかどうか、検討してみた。スケッチの類は二十枚ほどあり、それらを水彩画に仕上げることができれば、一冊の画集を作るには程々の枚数である。またその折にものした旅行記は、旅先での印象をかなり細かく記しており、また一枚ごとのスケッチには拙い英語でメモを付してある。これらの記録を絵に添えて、足りないところを補えば何とか見るに耐える画文集が出来上がりそうである。

こんな思いから、わたくしはこの画文集の作成に取り掛かった次第なのである。

まず原スケッチの一枚ずつを改めて眺め返し、完成度の高いものはそのまま生かして色をつけ、乱雑に描き流した絵には、彼の写真や絵はがきを参考に修整を加え、それに色を施した。色は写真を参考にしながら、かなり自在に塗ってみた。

年が明けてしばらくたってから、わたくしはまた彼に会う機会があったので、それまでに描きあがった絵と、それらのために整えた文章とを彼に示した。彼はそれらを見て、なかなかよくできていますねと、例のお世辞をいうのだった。

それぞれの絵には、もともと人の姿は多くは入れてなかったものを、あとから付け加えたばかりか、わたくしの息子である少年の姿を描き入れたので、それを見た彼は、小さな子を連れての異国旅行の思い出を、あらためて追体験するかのような気になるのだといった。

十年の歳月を隔ててそれぞれが別々に足を踏んだ都市であるが、こうして一枚の絵をともに眺めると、まるでふたりが一緒に見た景色であるような錯覚に見舞われる。ロンドンという都市は、時空を越えて人に訴えるものをもっているというのが、我々ふたりの共通の印象となった。

ところで、都市そのものが美的対象とされることは古来あまりなかったことである。その中でパリだけは別格で、ボードレールやアポリネールがパリの街の美を歌ったほか、二十世紀の画家たちは好んでパリの街角の景色を画題にしてきた。ロンドンについてはどうなんだろうと、わたくしがつぶやいたところ、彼はワーズワースの詩集を取り出して、その中から、アポン・ザ・ウェストミンスター・ブリッジという詩を示したのだった。十九世紀初頭のロンドンの町を歌ったものだという。
 
  Earth has not anything to show more fair:
  Dull would he be of soul who could pass by
  A sight so touching in its majesty:
  This city now doth like a garment wear
  The beauty of the morning; silent, bare,
  Ships, towers, domes, theatres, and temples lie
  Open unto the fields, and to the sky;
  All bright and glittering in the smokeless air.
  Never did sun more beautifully steep
  In his first splendour valley, rock, or hill;
  Ne’er so I, never felt, a calm so deep;
  The river glideth at his own sweet will;
  Dear God! the very houses seem asleep;
  And all that mighty heart is lying still!

 
なるほど、荘厳な光景を目にしながら、そのまま立ち去るものは愚かなものだといわねばなるまい。

ワーズワースが見たであろう景色は、現在のそれと根本的に変わっていないだろうと思われる。

議事堂こそ一八三四年の火災で焼けてしまったが、隣接するウェストミンスター寺院をはじめとして、多くの建物は当時のままに残っている。ロンドンは先の大戦中ドイツ軍による激しい空襲を受け、街は甚大な破壊を被ったのであるが、戦後英国人はかつての街並をほぼそのままに再建したそうである。十九世紀の末にアメリカ人の水彩画家ウィンズロー・ホーマーがウェストミンスター橋とその背後の風景を描いているが、その構図はわたくしの描いたものと殆ど異なるところがないのである。
      

     平成十六年春

                            壺齋散人識
 

(追記)この本の構成は、旅行記を中心にして、記事を説明するものとして水彩画を配し、それに当時英語でしたためたメモと、新たに書き下ろした説明文を付した。

なお、この旅行記は旅の合間、毎日ホテルで寝る前のひと時、その日の行動やら印象を記したものであるが、なにせ直感をそのまま筆にしたものであるから、思い違いや早とちりの類も多いだろうと思う。あえて訂正することなくそのまま載せることとした。

わたくしは、この記録を航英日誌と名づけ、記すに文語を以ってした。柳北や鴎外らの先人に倣ったつもりなのである。
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