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日本堤:東京風景写真


かつて吉原の北側には石神井川の分流山谷堀が流れていました
この堀がたびたび洪水を引き起こすというので 待乳山を切り崩した
土を以て埋め立て堤を築き それを日本堤と名づけました
土手の長さが八丁(約800メートル)あったところから
土手八丁とも呼ばれました

かつての日本堤の様子については 
永井荷風が小説「墨東綺譚」の中で描いています

「古本屋の店は、山谷堀の流が地下の暗渠に接続するあたりから、大門前日本堤橋のたもとへ出やうとする薄暗い裏通りにある。裏道は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、こなたは土管、地瓦、川土、材木などの問屋が人家の間にやや広い店口を示してゐるが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気な子家がちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋、山谷橋、地方橋、髪洗橋などといふ橋の灯がわづかに道を照らすばかり。堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。この辺で夜も割合におそくまで灯をつけてゐる家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらゐのものであらう。」(後略)



土手通り大門の向かい側に古い料理屋が二軒並んで立っています
一軒は桜鍋で有名な中江(手前)もう一軒は天丼のいせやです
中江は明治38年創業という古い店
いせやは「土手の伊勢屋」の愛称で知られ 
開店の1時間前から行列ができるほどの人気といいます



日本堤1丁目 土手通りを一本裏側に入った路地に
廿世紀浴場という変わった名の銭湯があります
建物の様子が時代がかっていますね



土手通りの北のはずれは三ノ輪の一角に
投げ込み寺で知られる浄閑寺がたたずんでいます
吉原の遊女が多数葬られたところとして 悲しい歴史に彩られている寺です
かつての遊女たちは過酷な人生を送り
三十前に死ぬものが多かったといいますが
その彼女らの生涯を哀れんで
「生きては苦界 死しては浄閑寺」という言葉が生まれました



境内の一隅に置かれた無縁塚
遊女たちの霊を合祀したものです



こちらは比翼塚 
遊女の中には惚れた男と添えられない悲しみに
打ちひしがれたものも多かったことでしょう



寺の裏側にある墓地の一角に 永井荷風の碑が建てられています
荷風は浄閑寺をたびたび訪れ 遊女たちの運命に思いを寄せました
その余り 自分のなきがらも遊女たちに混じってここに埋めてほしいと
遺言しているほどです


吉原日本堤 山谷南千住北千住




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