足利学校(36×26cm ヴェランアルシュ 2006年8月)

足利学校の創建については、確かなことはわかっていない。奈良時代の国学の遺制説がある外、平安前期に小野篁によって創られたという説もある。篁は当代きっての大学者、遣唐副使に任ぜられたが、大使藤原常融の専横を怒り、病と称して命を奉ぜず、隠岐に流された。逸話の多い人物で、能や田舎芝居に度々取り上げられている。一夜にして数百里を駆けたという伝説もある位だから、足利学校の創立者として不思議はない。

もっとも確からしいのは、義兼が鑁阿寺を創建した際、その境内地に併せて学校を作ったというものである。その後永享年間(一四三九)、関東管領上杉憲実によって儒書学領の寄進を受け、中興の礎を得た。憲実は武州金沢文庫の再興にも寄与しており、学問好きだったとされる。 戦国時代を通じ、足利学校は大名の保護もあって繁栄を続け、天文年間(十六世紀中頃)には、学徒三千といわれる程の規模になった。その頃、イエズス会宣教師フランシスコ・サビエルによって、「日本国中最も大にして最も有名な大学」として、ヨーロッパに紹介された。

当時の学制を伺うに、庠主、教授、学生からなり、皆僧形にして一同に起居し、主として儒書仏籍の研究にいそしんだ。ここを卒業した者は得がたき知識人として、各地の大名に迎えられたという。

寛文年間徳川幕府によって大規模な再興がなされた。今ある建物のうち、孔子廟、桔梗門、学校門などはその当時のものである。庫裡、方丈の新しい建物は、平成二年の復元事業の際に、古文献の記事をもとに建て直された。学校伝来の典籍は、今も収蔵倉に保存せられてある。 

この絵は、中央の扁額に学校とあるとおり、学校の正門を描いたもの。この門の奥には杏壇門があり、更にその先には孔子廟がある。





                 

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