東京の川と橋 | Rivers $ Bridges in TOKYO |
|
HOME | ブログ本館 | 東京風景写真 | 東京建築遺産 | 東京の祭 | プロフィール | 掲示板 |
明治以降の隅田川:東京の川の歴史 |
明治維新を経て、江戸から東京へと名称が変ると、それまで江戸の市街地の広大な面積を占めていた大名たちが去り、東京は一時期火の消えたような状態になったものと思われます。 その東京が帝都として飛躍的な発展を始めるのは、日清、日露の両大戦を挟んだ明治中葉以降のことです。全国から人口が集まるようになり、商都また工業都市として世界の大都市へと発展してゆきます。そんな中で、隅田川沿いは中小工場が密集する下町の工業地帯としての色彩を強くしてゆきました。 明治7年には隅田川では木造の橋として6番目の厩橋が架けられています。千住大橋などは、江戸時代の木橋が明治18年の洪水で流失し、再び木橋が架けられて震災で焼け落ちるまで使われたそうですから、長い間隅田川には木造の橋が架かっていたわけです。しかし明治20年に吾妻橋が隅田川初の鉄橋となったのをはじめとして、漸次鉄製のものへ架け替えられてゆきます。 明治29年と43年に東京は大規模な水害に見舞われます。なかでも明治43年の8月には関東地方の各地で河川が氾濫、隅田川も堤防が決壊して下町全域が水没しました。これを教訓に荒川を隅田川から分流させて新たな放水路を作ったことについては、第一章で紹介したとおりです。 この結果、隅田川は水量の調節が思うようになったので、河岸を改修して都市型の河川としての体裁が整えられていきました。それまでは川幅も広くゆったりと流れていた川が、堤防によって囲われた姿に変わっていき、本格的な橋梁建設も可能になったのです。 この流れのなかで、大正12年には関東大震災が東京を襲い、隅田川に架かっていた橋も大部分が甚大な損傷を被りました。このため政府は大地震にも持ちこたえられる恒久的な橋を隅田川に計画的に架けてゆくこととしました。世にいう震災復興橋梁です。 震災復興橋梁として架けられた橋は9つあります。下流から順に、相生、永代、清洲、両国、蔵前、厩、駒形、吾妻、言問です。これに震災で壊れなかった新大橋を加え、隅田川十橋と称され、東京の新しい名所になりました。この時期、白鬚橋と千住大橋はものの数に入れられてなかったようです。 隅田川の橋梁群がひとつの集合体として捉えられるようになったのは、それぞれの橋が多様なデザインを主張しながら、それでいてほかの橋との間で調和を奏でながら、全体として東京の都市景観に高いシンボル性をもたらしたからにほかなりません。つまり、設計者による統一的な設計思想があったためでしょう。これだけ多くの橋をほぼ同時に作ったわけですから、いわば設計の実験場となったわけです。 9つの橋のうち、両国、厩、吾妻の三橋は東京市が担当し、残りの六橋を内務省復興局が担当しました。復興局では外国の都市を参考にしたり、画家や作家の意見を聞いたりして、帝都の門たる第一橋梁の永代橋は、男性的で力強いデザインのアーチ橋とし、第二橋梁の清洲橋はライン川にかかるケルンの吊橋をモデルとして、女性的なやわらかさを感じさせるデザインを採用しました。このほかの橋も、それぞれにユニークなデザインを施され、いわば橋の博覧会ともいえるような状況が生じたのです。 それまで隅田川に架かっていた橋は、どれもみなトラス橋ばかりでしたので、新しく登場した多様な橋梁群を見た人々は、帝都復興の象徴のようなものを感じたに違いありません。これらの橋のうち、最も早く完成したのは相生橋と永代橋で大正十五年、もっとも遅いのが両国橋の昭和七年です。昭和15年には東京ではじめての跳ね橋「勝鬨橋」が完成し、千住大橋より下流の橋を総称して「隅田川十三橋」と呼ぶ言い方も現れました。その後、人道橋などがいくつか架けられますが、隅田川の橋梁群の姿はこの時期に確立したのです。 作家永井荷風の随筆「深川の散歩」の中で、清洲橋にたって隅田川の眺望をかたる部分があります。かつての隅田川を語る資料として、ここに引用しておきましょう。 「清洲橋といふ鉄橋が中州から深川清澄町の岸へと架けられたのは、たしか昭和三年の春であらう。・・・橋の中程に佇立むと、南の方には永代橋、北の方には新大橋の横たはってゐる川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中州の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、東の方、深川の岸を望むと、遥か川しもには油堀の口にかかった下の橋と、近く仙台堀にかかった上の橋が見え、また上手には万年橋が小名木川の川口にかかってゐる。これ等両岸の運河にはさまざまな運送船が輻輳してゐるので、市中川筋の眺望の中では、最も活気を帯び、また最も変化に富んだものであらう。」 |
HOME | 東京の川と橋| 川と橋の歴史 | 次へ |
作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2021 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |