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能「隅田川」について:東京の川の歴史


能の名曲「隅田川」は、世阿弥の長男元雅の作品です。もとよりフィクションであり、史実に基づいたものではないとされていますが、さまざまなところで隅田川のイメージ形成に強い影響を与えてきました。この川を語る際にはさけて通れない作品です。

この作品のテーマは、人買いと女の狂いです。

人買いとは、婦女子をたぶらかして誘拐し、彼らを奴隷として長者に売りつける者のことをいいます。今の時代には信じられない話ですが、この国の中世にはよくあることだったようです。有名な山椒大夫の話なども、こうした時代背景から生まれたのでした。

女の狂乱は、能が好んで取り上げたテーマで、世阿弥も「班女」や「桜川」など狂女を主人公にした多くの曲を書いています。戦乱にあけくれた日本の中世社会は、女性にとっては生きにくい社会だったことはたしかなようで、そこから女の悲しみやその結果としての狂乱が、深く人々の共感を呼んだのでしょう。

こうした悲しいテーマをもとに、この作品は人間の不幸と苦渋を綿々と語ります。梅若は人間の悲しみが昇華された霊性となり、隅田川は悲しみの舞台となります。

この作品を作った元雅には、他にも、「弱法師」、「蝉丸」、「朝長」などの作品があり、いづれも人間の悲哀を正面に見据えたものとなっています。「隅田川」とほぼ同じような筋書きからなる世阿弥の「桜川」という曲が、最後は母子の対面の喜びで終わっているのに対し、この作品は子の死に直面する母の絶望で終わっているのです。

父の世阿弥は能楽を集大成させ、夢玄能と呼ばれる様式を確立しました。それに対し、元雅はあくまでも現実を踏まえ、人間の苦悩をあからさまに表現する作風に徹しています。作品の哀れさもさることながら、自身の生涯も苦渋に満ちたもので、父に先立ち若くしてなくなってしまいました。

この作品の舞台は、隅田川とそこをわたる渡し舟です。そしてこの船の中で、悲哀のドラマが展開していきます。能の曲としては、筋書きの展開に富んだ作品となっているのです。

それでは、作品そのものに即して、中世人の悲しみを読み解いていきましょう。(テクストは、観世流謡本です)

導入部は、隅田川の渡守たるワキの口上で始まります。

ワキ これは武蔵の国隅田川の渡守にて候 今日ハ(こんにった)舟を急ぎ人々を渡さばやと存じ候 又この在所にさる子細あって 大念仏と(だいねんぶっと)申す事の候間 僧俗を嫌はず人数(にんじゅ)を集め候 その由皆々心得候へ

そこへ都のものと名乗る男が現れ、舟に乗りますが、いまさっきみたという女物狂いのことを話すと、興味を覚えた渡守は、その女狂いを見たいと思い、彼女の来るのを待ちます。ここまでを前口上に、狂女に扮したシテが登場します。

シテ げにや人の親の 心は闇にあらねども 子を思ふ道に迷ふとは 今こそ思ひ白雪の 道行人に言伝てて 行方を何と尋ぬらん 行方を何と尋ぬらん 聞くや如何に うはの空なる風だにも
地謡 松に音する習ひあり
シテ 真葛が原の露の世に
地謡 身を怨みてや明け暮れん
シテ これは都北白河に 年経て住める女なるが 思はざる外に一人子を 人商人に誘はれて 行方を聞けば逢坂の 関の東の国遠き 東とかやに下りぬと 聞くより心乱れつつ 其方とばかり思ひ子の 跡を訪ねて迷ふなり 
地謡 〔下歌)千里を行くも親心 子を忘れぬときくものを
    (上歌)もとよりも 契り仮なる一つ世の 契り仮なる一つ世の その中をだに添ひもせで 此処や彼処に親と子の 四鳥の別れこれなれや 尋ぬる心の果やらん 武蔵の国と下総の中にある 隅田川にも着きにけり 隅田川にも着きにけり

(太字は謡の部分をあらわします)
地謡に紹介されるようにして登場したシテは、渡守とのやり取りを経て舟に乗ります。このやりとりが在五中将の都鳥伝説を踏まえたもので、一曲の趣向をなす部分となっています。

シテ なうなう我をも舟に乗せて賜り候へ 
ワキ おことは 何処より何処へ下る人ぞ
シテ これは都より人を尋ねて下る者にて候
ワキ 都の人と云ひ狂人と云ひ 面白う狂うて見せ候へ 狂はずは この舟には乗せまじいぞとよ
シテ うたてやな 隅田川の渡守ならば 日も暮れぬ舟に乗れとこそ承るべけれ
   形の如くも都の者を 舟に乗るなと承るは 隅田川の渡守とも 覚えぬことな宣ひそよ
ワキ げにげに都の人とて名にし負ひたる優しさよ 
シテ なうその言葉は此方も耳に当るものを かの業平もこの渡りにて 
名にし負はば いざ言問はん都鳥 我が思ふ人はありやなしやと
なう舟人 あれに白き鳥の見えたるは 都にては見慣れぬ鳥なり あれをば何と申し候ぞ
ワキ あれこそ沖の鴎候よ
シテ うたてやな 浦にては千鳥とも言へ鴎とも言へ などこの隅田川にて白き鳥をば 都鳥とは答へ給はぬ
(中略)
ワキ かかる優しき狂女こそ候はね 急いで舟に乗り候へ この渡りは大事の渡りにて候 構へて静かに召され候へ

こうして、舟は向こう岸に向けて進みだします。舞台の上には、舟の形をした簡単な作り物がすえられ、一同はその中に座っているような姿勢をとります。その中で渡守一人が立った姿勢で、櫓をこぐ仕草を続けます。

ワキツレ なうあの向ひの柳の下に 人の多く集まりて候は何事にて候ぞ
ワキ さん候 あれは大念仏にて候 それにつきて哀れなる物語の候 この舟の向ひへ着き候はん程に
語って聞かせ申さうずるにて候

渡守は櫓をこぐ仕草もゆったりと 人商人にさらわれた幼い者の運命を語ります。

ワキ さても去年三月十五日 しかも今日に相当りて候 人商人の都より 年の程十二三ばかりなる幼き者を買ひ取って奥へ下り候が この幼き者 未だ習はぬ旅の疲れにや 以ての外に違例し 今は一足も引かれずとて この川岸にひれ伏し候を なんぼう世には情けなき者の候ぞ この幼き者をば そのまま路次に捨てて 商人は奥へ下って候 さる間この辺の人々 この幼き者の姿を見候に 由ありげに見え候程に さまざまに労はりて候へども 前世の事にてもや候ひけん たんだ弱りに弱り 既に末期と見えし時 おことは何処如何なる人ぞと 父の名字をも国をも尋ねて候へば 我は都北白河に 吉田の何某と申しし人の
ただ一人子にて候が 父には後れ母ばかりに添ひ参らせ候ひしを 人商人に拐はされて かやうになり行き候 都の人の足手影も懐かしう候へば この路の傍に築き籠めて 標に柳を植ゑて賜はれとおとなしやかに申し 念仏四五辺唱へ 終に事終って候 なんぼう哀れなる物語にて候ぞ 見申せば船中にも少々都の人も御座ありげに候 逆縁ながら念仏を御申し候ひて御弔ひ候へ 疾う疾う御上り候へ

渡守が語り終わって船が向岸につくと、客はみな船から下りますが、あの狂女だけはいつまでも下りようとしません。不審に思った渡守は狂女をせきたてます。が、狂女が悲しみに泣いている姿をみると、如何なるわけがあるのかと、そのわけを聞こうとします。

ワキ いかにこれなる狂女 何とて舟よりは下りぬぞ急いで上り候へ あら優しや 今の物語を聞き候ひて落涙し候よ なう急いで舟より上り候へ
シテ なう舟人 今の物語は何時の事にて候ぞ
ワキ 去年三月今日のことにて候
シテ さてその稚児の年は
ワキ 十二歳
シテ 主の名は
ワキ 梅若丸
シテ 父の名字は
ワキ 吉田の何某
シテ さてその後は親とても尋ねず
ワキ 親類とても尋ね来ず
シテ まして母とても尋ねぬよなう
ワキ 思ひもよらぬ事
シテ なう親類とても親とても尋ねぬこそ理なれ その幼き者こそ この物狂が尋ぬる子にてはさむらへとよ
なうこれは夢かやあら浅ましや候 

事情を知った渡守は狂女を梅若丸の塚に導きます。先に導入部で前触れがあったとおり、この日は梅若丸の一周忌にあたる日であり、岸辺では塚を囲んで大念仏が行われている設定になっています。

ワキ 言語道断の事にて候ものかな 今までは外の事とこそ存じて候へ さて御身の子にて候ひけるぞや あら傷はしや候 かの人の墓所を見せ申し候べし 此方へ御出で候へ
シテ 今まではさりとも逢はんを頼みにこそ 知らぬ東に下りたるに 今はこの世に亡き跡の 標ばかりを見る事よ さても無慙や死の縁とて 生所を去って東のはての 路の傍の土となりて 春の草のみ生ひ茂りたる この下にこそあるらめや
地謡 さりとては人々 この土をかへして今一度 この世の姿を母に見せさせ給へや

場面はいよいよクライマックスにむかって突き進んでいきます。渡守と狂女は塚の前に進み、念仏をささげます。そして両者のやりとりを地謡が引き取り、大念仏の悲しい情景を演出します。

ワキ 今は何と御嘆き候ひてもかひなき事 ただ念仏を御申し候ひて 後世を御弔ひ候へ
既に月出で川風も はや更け過ぐる夜念仏の 時節なればと面々に 鉦鼓を鳴らし勧むれば
シテ 母は余りの悲しさに 念仏をさへ申さずして ただひれ伏して泣きゐたり
ワキ うたてやな余の人多くましますとも 母の弔ひ給はんをこそ 亡者も喜び給ふべけれと
鉦鼓を母に参らすれば
シテ 我が子の為と聞けばげに この身も鳧鐘を取り上げて
ワキ 嘆きを止め声澄むや 
シテ 月の夜念仏諸共に
ワキ 心は西へと一筋に
シテとワキ 南無や西方極楽世界 三十六万億 同号同名阿弥陀仏
地謡 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
シテ 隅田河原の 波風も声立て添へて
地謡 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
シテ 名にし負はば 都鳥も音を添へて
地謡 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

地謡の沈痛な響きの中から 今は亡き幼子の声が聞こえてくるといって 狂女が色めき立ちます

シテ なうなう今の念仏の中に 正しく我が子の声の聞こえ候 この塚の内にてありげに候よ
ワキ 我等もさやうに聞きて候 所詮此方の念仏をば止め候べし 母御一人御申し候へ
シテ 今一声こそ聞かまほしけれ 南無阿弥陀仏
子方 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と
地謡 声の中より 幻に見えければ
シテ あれは我が子か
子方 母にてましますかと
地謡 互いに手に手を取り交はせば また消え消えとなり行けば いよいよ思ひは真澄鏡 面影も幻も 見えつ隠れつする程に 東雲の空も ほのぼのと明け行けば 跡絶えて我が子と見えしは
塚の上の 草茫々としてただ標ばかりの 浅茅が原となるこそ哀れなりけれ なるこそ哀れなりけれ

念仏の声に導かれるように、塚から蘇ったと思われた我が子の姿は、はかない幻だったことがわかり、母の絶望のうちに一曲が閉じます。上に書き出したテクストからも、この曲の深い悲しみを汲み取っていただけたのではないでしょうか。

この曲については、父世阿弥との間で議論のあったことが、猿楽談義に記されています。世阿弥は曲の趣旨からして、子方の登場は無用ではないかとの意見であったのに対し、元雅はあくまで子方の登場にこだわったとされています。悲しみに実体を伴わせるために、そう主張したのでしょう。リアリティを重んじる元雅らしい態度だと思います。

この曲があまりに真に迫ったものであったために、元来フィクションであるにかかわらず、梅若伝説なるものまであらわれました。現在隅田川左岸の水神橋の袂に、木母寺という寺がありますが、その一角に梅若塚と銘するものが設置されています。これを見た人は、梅若があたかも実在したような感に打たれるそうです。
これなどは、梅若伝説のもたらしたひとつの象徴的な事象といえましょう。

さて、小生は数年前に散人に誘われ、水道橋の宝生能楽堂で催された銕仙会の公演を見に行き、そこでこの曲に接しました。非常に悲しい雰囲気につつまれた曲だという印象を受けたものです。散人も感動を受けたらしく、観劇後心境を聞いたら、次のような答えが返ってきました。

あまりに悲しく候程に 思はず落涙仕りて候




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