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徳川時代における墨東の運河開削:東京の川の歴史




上図は家康が江戸に入府した直後の墨東地域の海岸線を示しています。現在小名木川が流れている部分より南へ1キロほどのところに海岸線があったと思われます。海岸線といっても画然としたものではなく、低湿地と干潟が連続した曖昧な線だったと想像されます。

家康はこの海岸線にそって運河を掘らせました。小名木川と新川です。これは行徳の塩を江戸には運ぶための舟運の施設を整備するのが主な目的だったとされています。行徳で塩を積んだ船は新川を通り、中川を横切って小名木川に入り、さらに隅田川から道三堀を通って江戸城下に入ったものと思われます。塩のほか、船橋や浦安で取れた魚介類や野菜の運搬にも使われました。

運河の開削は大量の土砂を発生させます。この土砂は海岸の埋立に使われました。家康はこの事業を摂津から来た漁民にゆだね、新たな土地の造成を許しました。こうして作られたのが深川猟師町という開拓地です。現在の佐賀町や清澄などがそれにあたります。

この造成工事と平行して仙台堀が開削され、それから発生する土砂も埋立に使われました。仙台堀は寛永元(1624)年、深川猟師町は同5(1629)年に完成しています。



仙台堀の開削から30年余り後、17世紀のなかばに、第二の運河開削事業が行われました。

明暦の大火を契機に幕府は江戸の都市改造に取り組み始めます。その大きな柱の一つに墨東地域の市街化がありました。幕府は両国橋を架橋して府内と墨東を結び、大名や旗本の屋敷地を大規模に移転させる政策をとったのですが、そのためには、低湿地だった墨東の土地を灌漑して、人の住める場所に変えなければなりませんでした。

北と横の十間川、大横川、竪川などの運河は、この土地の灌漑を主な目的に掘られたものです。運河に水を集めることによって残余の土地は乾燥し、人が住むに堪える土地に生まれ変わったのです。

これらの運河は同時に物流のためにも役立てられ、また、諸国から集められた木材を係留する場としても用いられました。こうして、墨東地域は木場としても発展する素地を与えられたのでした。

本所地域には大名や旗本の屋敷地が集中しましたが、その下水のための施設として、南北の割下水が掘られました。そのころの下水路は、今と違って汚水の割合は少なく、水は比較的きれいだったことが、円朝の人情噺などからうかがうことができます。

越中島はごみを埋め立ててできた島です。江戸はリサイクルの進んだ社会で、出るごみの量は今とは比較にならないほど少ないものでしたが、それでも人口の増加と共に増え続けるごみを衛生的に処分するため、幕府は江戸市中のごみをすべて越中島に運ぶよう命じたのでした。

ごみの島といえば夢の島が思い浮かびますが、ごみを海岸に埋め立てるという発想は徳川時代の昔からあったわけです。




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