四方山話に興じる男たち
HOMEブログ本館東京を描く日本文化知の快楽水彩画あひるの絵本プロフィールBBS


カッセルへ:独逸四方山紀行



(カッセル市街)

六月廿四日(土)午前六時に起床す。窓外細雨煙の如し。昨日の日記を整理し、七時過ぎより朝食。卓上谷子に昨日訪問したる施設Motteの名の由来を問ふ。谷子答へて曰く、モッテとは本来蛾の一種をさして言へり。それが結核の意味に転移し、更に体制を腐食する不届き者をさしていふようになりたり。その所以を言ふに、蛾の幼虫の葉を食ひ散らかすこと、結核菌が肺の細胞を浸潤し、また不届き者が体制を腐食することを想起せしむるが故なりと。谷子また言ふ、かのミハエル氏はアナーキストなりと。

この日はドイツ中部の都市カッセルに移動するつもりなれば、八時にホテルを辞してダムトーア駅に至り、そこよりチューリッヒ行きのイーツェーエー(都市間高速鉄道)に乗る。谷子が言ふには、車内混雑せざるを予想し、指定席の予約はなさざりし由。ついては諸子においては、空席を見つけて座すべしと。早速車両内に立ち入りて空席の確認をなす。その方法たるや、座敷の上部に予約情報あらざる空白表示の席を求め、そこに座るべしとなり。独逸の列車予約システムは日本のそれと異なり、車両単位に予約席を設けず。同一車両内に予約席としからざる席を並存せしむ。されば予約せざる客は、いまだ予約せられざる席を確認して、そこに座するなり。

かくして、余らは谷子に指示せらるるまま、とりあへず空席と思しき席にバラバラに座したり。ところがよくよく見るに、いずれも空席にあらず。どうやら谷子が見誤りたるが如し。ハノーファーにて予約者乗り込むはずなれば、ハノーファーに到着する少時前に、食堂車に移動す。幸ひなことに食堂車の一角に席をとることを得たり。



ワインを飲みつつ歓談す。窓外を見るに、はるかかなたまで麦畑広がりその合間に潅木の林点在す。すこぶる長閑な景色なり。田園光景の合間には、人里も垣間見えたり。家屋は赤い三角屋根の農村風のいでたちなり。安野光雅の水彩画を見るが如し。

ワインを飲みつつ歓談するうちに、議論大いに白熱せり。どふいふわけか大議論となる。谷、岩、浦の諸子こもごも持論を開陳してやまず、興奮する余りに口角より泡を飛ばすこと数次、その声たるや車内に轟きわたり、周囲のドイツ人の度肝を抜くほどなり。日本人とはさても議論好きの国民なりや、とさぞ思はれたるべし。もっとも議論の内容は、いま以て記憶するところあらざれば、国家社会の大計にかかはることにてはあらざりしが如し。

午前十一時五分、予定より三十分遅れてカッセル駅に到着す。投宿先は駅前のホテル、べスト・ウェスタンなり。そこに荷物を預け、ロビーにて今後の予定を鳩首検討す。みな疲労のたまるところなれば、余は無理せざるやうにと献言せしが、谷子の主導のもとに、行動深夜に及ぶ過酷なスケジュールを立てたり。余その実現を危ぶみたれど、他の三子は闘志満々、何のこれしきとの勢ひなり。余それを見て嘆息すること数次。彼らは老人特有の万能感のとらふるところとなり、いかなる困難もらくらく乗り越ゆる積りなり。その剣幕たるやまことに恐るべきなり。

カッセル市内は目下ドクメンタなる行事開催中なり。その見物は明日にまはし、この日は、グリム・ヴェルト、埋葬文化博物館、ウィルヘルム城などを見物し、一旦ホテルに戻りて後独逸式温泉につかることと決す。



駅前よりトラムに乗り、ヴィルヘルム・シュトラーセにて下車。ドクメンタのメイン会場やらラートハウスを瞥見す。ラートハウスは対戦中空襲にあひたるはずなれど、それを感じさせぬほどなり。カッセルは、ドイツの他の伝統的都市とは異なり、空襲にて破壊せられたる町の復旧を意図的に放棄せりと聞けど、なほ町のあちこちに古き建物残れるなり。



目抜き通りを散策して後、グリム・ヴェルトを見物す。グリム兄弟の業績を展示するものにて、辞書の編纂過程やら童話の紹介をなせり。見所多し。特にグリム童話を映画化したる映像の紹介は面白し。そのうち四人揃って尿意を催したれば、仲良く肩を並べて便器に向ふ。曰く、仲良し老人四人組尿意を同調すと。



谷子に案内せらるるまま、ラートハウス内食堂に入らんとす。土曜日のため休業中なり。やむなく街角のカフェを物色するに、なかなか谷子の気に入る店にあたらず。妥協して一軒のカフェに入り、ビールとハンバーガーを注文す。ボーイらいづれも顎鬚を生やせり。独逸今風の流行なりや。顎鬚を生やし二の腕に刺青せるを以て男伊達と思ひをるが如し。

さるほどに、ビールはともかく、ハンバーガーはいつになりても給仕せられず。二時間近くたってやうやく給仕せらる。谷子が言ふに、目下ドクメンタ開催中にて独逸中より人が集まり来たればどの店も満員の繁盛ぶりなり。されば給仕の遅れるを嘆きても大人気なし。とはいへ、二時間も待たされては多少腹も立つなりと。

待たされをるイライラと空腹とに刺激されてか、谷、岩、浦の諸子、またもや大激論をなす。とりわけ谷・岩両子の議論は、政治と正義を論じ共に己の主張の正統性を譲らず、互ひに相手を論難しては口撃のやりとりをなす。そのさまプロタゴラスとゴルギアスの論争を目撃するが如し。

余らのなかなかハンバーガーにありつけぬところ、雀らは夫婦単位でやってきては、人のこぼせしパン屑などをあさりてあり。カッセルは、雀にとっては住みやすきところのやうなり。その分人間様はイライラさせられるところと見えたり。かかれば谷子は、支払にあたってチップを与へざりき。


HOME|  独逸四方山紀行 |次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2016-2017
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである