四方山話に興じる男たち
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浅草橋でフグを食う


四方山話の会の今年の例会は先日の歌声喫茶が千秋楽だったはずなのだが、どういうわけかおまけがついて、浅草橋のたのやというフグ料理屋でフグのフルコースを食うことになった。例によって広い交際を誇る浦子の差配だ。

たのやは浅草橋駅の西口を出てすぐのところにある。駅前で偶然会った栗子とともに店に入ってみると、すでに五人の男たちが卓を囲んでビールを飲んでいた。宅の上にはてっちりの鍋が二台並んでいる。それを見て、ああ今日は久しぶりにてっちりが食えると幸福な気分になった。

この時点で参会しているメンバーは、福、六谷、浦、小、石、栗、それに小生を合わせて七人だ。これに岩子が加わるはずだが、その岩子がなかなか現れない。どうしたのかとみなで気をもんでいるうち、浦子の携帯に電話をかけてきて、会場を間違えて新橋に来てしまったという。浅草橋に行くにはどうしたらよいかと続けて訪ねるので、浦子は電車の経路をいろいろと説明していたが、そのうち面倒になって、タクシーで駆け付けろと指示して電話を切った。

ふぐ刺しやらさんまの陰干しやらを食い、フグのひれ酒を飲んだ。ひれ酒は一升分あるので遠慮しないで飲んでくれと浦子が言う。そう言われて遠慮する人々ではない。小生はアルコールを火で飛ばそうと思い、福子にマッチはないかと聞いたところ、俺がつけてやるからと言って、マッチを盃に近づけ、蓋を開けない方がよいと言う。蓋を開けなければ火をつけられないではないかと言うと、蓋を開けるとアルコール分が飛びすぎてしまうと譲らない。それを見ていた栗子が、たかが十五六度のアルコールを火で飛ばすものがあるかと言うので、ひれ酒はアルコール度数は低くても火で飛ばすのがこの辺の流儀なのさと答える。

そのうち岩子がやってきた。みなから同時に注目されて多少照れているようである。そこで小生は、集合場所を間違えるのはよくあることさ、こないだも小生の知人に、羽田に集合すべきところを成田に行ってしまったおとぼけ者がいたが、それに比べるとささやかなものさと岩子を慰めてやった。すると石子などは、それはおとぼけ者ではなく阿呆だと言うので、岩子は決して阿呆ではないと重ねて強調したのだった。

今宵は臨時の催しでもあり、特にテーマを設けずに、フグを食いながら気楽な茶飲み話を楽しもうということになったが、メンバーの性格からして、世の不条理を慨嘆する議論に傾いたのは避けがたいことだった。内政・外交ともども最近の日本人はどうも常軌を外れている趣がある。内政では、天皇の譲位問題があらゆる事項に優先して報じられ、天皇の存在が俄かに政治化して見える。一方、モンゴル人力士による不祥事をきっかけにしてモンゴルバッシングのようなものが起こり、日本人の排他意識が俄かに高まっている。外交では、隣国北朝鮮による核弾道ミサイル開発が国民を一種のヒステリー状態に陥れ、対朝戦争も辞せずといった不穏な空気が蔓延している。対朝戦争が始まれば数も知れぬ日本人が死ぬ可能性があるが、そんな不都合な可能性は一顧にも値しないといった、不条理極まりない考え方が瀰漫している。これは非常にあやういことだ。

ひとつだけ救われるのは、安倍晋三が米国の大統領でないことだ。安倍晋三がもしも米国の大統領だったら、いまごろはすでに対朝戦争を始めていたに違いない。また、ヒラリーが大統領になっていても、戦争を始めていた可能性が大きい。その点ではトランプは、なんだかんだ言っても、現実的な対応をしている。それはトランプが、戦争をビジネスの延長として考えているからで、こちらが圧倒的に有利であると見込まなければ、つまり十分に引き合うビジネスでなければ、戦争を始めることはしないだろうという安心感がある。彼は戦争を、正義とか主義とかいった空疎なタームで考えることがない。そこが世界にとっての安心材料だが、トランプには一方で、異常なナルシシズム性向があるので、金正恩の侮辱を我慢できずに暴走する危険性は否定できない。願わくは彼らの喧嘩が犬の喧嘩のレベルにいつまでもとどまっていることだ。そんな趣旨の話を、小生もしたし、他の連中もした次第だ。

無論下世話な話がないわけではなかった。てっちりが仕上がってくると、熱いフグを口に運びながら、どういう流れからは覚えていないが、小生が先日浦子に招かれて行った真鶴の温泉で湯あたりをし、キンタマをさらしながら伸びてしまった経緯を話した。その延長で先日ドイツの温泉に浸かった際にも湯あたりをし、伸びてしまいそうになったので大いに心配になったという話もした。そのついでに、ドイツ人の男根とか女陰のことも話題になった。ドイツ人には、男女ともに他人の目の前に性器をさらすことを恥じない文化があるようだ。

学問的な話題にもこと欠かなかった。福子は倫理学の研究に生涯をささげてきたが、彼のテーマは人間をトータルに見ることで、単に意識の主体として見るのは邪道だという信念を持っている。そういう立場から福子は学生たちにカントやデカルトを教えないのだと言う。カントの説を真に受ければ、明瞭な意識を持たない精神障碍者は人間とは言えなくなる。そういう立場からは、優生思想とかファッショ的な差別意識が育ってくるだろう。

ひととおりコースが終わったところでお開きとなった。どこかで飲みなおそうということになったが、今宵はめずらしく小子が、俺も参加すると言った。そこで線路を挟んだ反対側にあるムーンというバーに席を移した。会するものは、小、岩、浦、石、それに小生を加えた五名である。

なんとかいうバーボンウィスキーのソーダ割を飲みながら歓談した。二件目とあって、話題はぐっと下に集中した。とりわけそれぞれに外国旅行をした際の恥のかきすての思い出がなつかしそうに語られた。こういう話になると、皆目が生きいきとしてきて、実にうれしそうな表情になる。人間いつくになっても、へそ下のことがらには弱いものらしい。

また近いうちにヨーロッパに旅行したいねという話にもなった。小子は腎臓病の都合で活動を制約されているが、一つのホテルに定住して、そこから観光に出かけるというパターンなら対応できると言う。ではそれも含めて、近いうちに計画を煮詰めようということになった。一方石子は、来年の六月に、今度は地中海の西半分を観光する予定だと言うことだ。

なお、新年会は二月にやろうということになったが、ついては誰かにプレゼンテーションをやってもらいたい。だがすぐに話ができるのはお前くらいしかいないから、お前から何か話をしろ。映画の話なんかどうだ、と石子が小生に言うので、映画の話なら柳子にさせろよと言ったのだが、柳子は今日はいないし、話をすることにあまり乗り気でないようだから、とりあえずお前が映画の話をしろよとかさねて強要する。結局強要に屈して話をする羽目になってしまった。テーマは「戦争と映画」である。肩の張らない話に心がけるので、諸君もリラックスして聞いてもらいたい。



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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2016-2017
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