四方山話に興じる男たち
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生きる愉しみを聞く


四方山話の会七月の例会には、前回に続き赤子が出席し、自分の半生について語るというので、楽しみに出かけて行った。会場はいつもの通り新橋の焼鳥屋古今亭。定刻ちょっと前について見ると、座席が六人分用意されてあり、小生が腰かけると満員になった。ところが幹事役の石子の姿が見当たらない。どうしたことかといぶかる間もなく、その石子があらわれて、全部で七人になった。小生と石子のほか、六谷、梶、赤、浦、小の諸子である。

赤子がA四用紙七ページ分のレジュメを配り、話を始めた。赤子は教育現場が長いので、学生らを相手に話すことには慣れているが、いままで自分自身について語ったことはない。今宵は君たちを相手に、自分のことを語ることができるのがうれしい、そう言って赤子は自分の半生について語るのであった。

卒業後、石子と同じ企業体に就職したが、そこは一年ちょっとでやめた。さる外資系企業がスタッフを募集していたので、それに応募したら合格したからだった。100人中5人という狭き門だった。合格したのは、日本語がちゃんと話せるという理由からだった。外資系というので、日系アメリカ人とか、あまり日本人らしくない人間ばかり応募して、自分の日本人らしさが目立ったのだという。採用後は営業部門に配属される予定のところ、企画部門の管理職に見初められて引っ張ってもらった。これが自分にとって人生の転機になった。

この外資系企業では、語学教育や国際文化活動のプロモーションをやっていた。自分を引っ張ってくれた上司が、さる大學に転職したのにあわせて、自分もそこへ移った。卒業後8年目のことだ。その大学ではあまり高い給料はもらえなかったが、そのかわり兼職は認められたので、国際関係の法人の研究員を手始めに、立教大学、一橋大學、国学院大学、都立大学、明治学院大学等々多くの大学の講師をやった。早稲田の大学院の講師をやったこともある。

大學での講義のテーマは、国際協力が中心だった。外資系企業で培ったノウハウが役に立ったのだ。そのノウハウを発揮するために、東南アジアを始め海外へ出張指導することもたびたびだった。時には留学することもあった。タイのチュラロンコン大学には1年半ばかり留学した。そのさい、本務先の大学が、籍をそのままにしてくれて、しかも本俸の半分ではあるが、報酬迄保証してくれた。

自分は他人の目には、一つの組織に腰が定まらぬヴァガボンドのように見えたらしく、大学時代の友人からは、お前はちゃんと食えているのかと心配してもらったほどだが、自分としては、結婚して子供も二人育てているし、女房子供にひもじい思いはさせていないという自覚があった。そのうえ、仕事で世界を飛び回ることができて、非常に生甲斐を感じてもいた。自分の仕事は、当時の日本では非常に斬新なもので、ほかに従事する者がいないこともあって、好き勝手にやることができた。政府から研究費を交付されたこともある。とにかく、自由奔放に生きることが出来て、楽しい生涯だったといえるのではないか。

晩年は、別の有名大学に転職して、そこの国際教育センター長というのを長くつとめた。これも外資系企業以来培ってきたノウハウを生かした仕事だ。そんな具合で、自分の場合には、外資系企業で培った経験が、その後の人生に大いにプラスになった。

このように赤子が自分の半生を振り返ったところ、六谷子が感想をのべて、君には詐欺師の要素があると言う。それを聞いた小生は、随分ひどいことを言うなと思ったが、詐欺師というのは誉め言葉で、世の中を渡るのがうまい意味だと強弁する。そう言われた赤子本人は、自分はそんなに世渡りがうまいとは思っていない、世渡りがうまかったら、もっと出世しただろうと言う。すると他の諸子も、ここにいる人間はみな、世渡り上手ではないよと同調した。その証拠に誰一人出世したものがない。

世渡りのうまい下手はともかく、赤子が自分の人生を楽しみながら生きて来たという感じは伝わって来た。小生を含めて四方山話に興じる我々老人仲間は、みな毒にも薬にもならないような味気ない人生を過ごしてきたので、赤子のように自由奔放に生きて来た人間は、まぶしく映るところだ。誇張なしに。

赤子の話が終わったあとは、それこそ四方山話に移行した。まず先日の参院選の結果について、赤子が小生に意見を求めたので、これは今の日本人が現状に満足して保守的になっていることのあらわれだろうと感想を述べた。その証拠に、この数年、日本人の自殺者は激減している。そのあたりの分析は、ブログに乗せているので是非読んでもらいたい。そう言うと赤子は、来年の都知事選はどうなるかと聞いて来た。特に小池与党の行く末が気になるらしい。そこで小生は、小池ブームは去ったから、よほどのことがない限り、次の選挙では、本人が落選する可能性も高いし、まして小池与党の都民ファーストは霧散するだろうと答えた所、どういうわけか赤子は安堵の表情を見せた。小池与党が嫌いらしい。

清子が例のSNSを立ち上げたことについては、早速投稿の依頼が来たが、それには俺は協力するつもりはないと六谷子が言う。他の連中にも投稿する意志は見えなかったが、六谷子があえてそう宣言したのには、何か特別の理由があるのか。いまさら学生気分でもないということか。

その学生気分ということについては、小子はいまでも早稲田のキャンパスを頻繁に訪れ、当世の学生気質を観察しているのだそうだ。今でも立看板があちこちに立っているが、書かれていることは、自分らの学生時代とはかなり異なっている。それはそうだろう。我々が学生だったのは、半世紀も前のことだから。その我々の学生時代に、各学部の自治会が次々と解散させられたが、いまでも学生自治会は存在しないらしい。学生自治会というのは、ヨーロッパの大学では歴史的な意義をもっていて、いまでも大学の運営に一定の役割を果たしているが、日本の大学では、学生自治会は学生の互助組織みたいなものだから、あってもなくても大した差はないということらしい。

その他にも色々な話題が出たが、おおかた忘れてしまった。ただ、ライフ・ヒストリーの披露はこれでとりあえず一巡し、次回は特にこれといったテーマがないので、四方山話でお茶を濁すことになるだろうと言うから、小生がひとつ提案した。なにか一つモチーフを設定して、それについて、プラトンの対話篇「饗宴」にあるような対話のやり取りをしたらどうだろう。そう提案したところが、六谷子がまたもや異議を唱えて、そんなものバカバカしいというようなことを言った。それで小生の提案は、受け入れられることはなかったのであった。


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