四方山話に興じる男たち
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二年ぶりに新橋で再会する


四方山話の会が、最後にフルメンバーで集まったのは2019年7月のことだ。その後、コロナ騒ぎがあったりして久しく絶えていたが、世の中が多少落ち着いてきたのを見計らって、思い切って再会することとなった。例によって石子がフルメンバーに呼びかけ、八人を限度として参加者を募ったところ、九人が集まることになった。二年ぶりの再会の場所は、新橋の焼き鳥屋古今亭である。

小雨の中を店に駆けつけると、玄関先で石子と出会った。一緒に部屋の中に入っていくと、福子と小子が先に来ていた。福子が小生にむかって、お前のブログを面白く読んでいるという。すると石子が、こないだの女性作家(高樹のぶ子)についての文章はいただけないね、と冷やかす。卑猥だからという理由らしい。それはお前が偽善者だからだと返す。

九人のうち一人(七谷子)が緊急事態とかで欠け、八人が集まった。小生のほか、福、岩、小、赤、島、石、浦の諸子である。このうち島子は、この会には初めての参加である。小生は彼の顔と名前が一致しないのをいぶかったが、彼もまた小生の顔を覚えていないようだった。それはしょうがない。人間は、老いぼれるとまず、個物が識別できなくなるものだ。人の顔を忘れるのは摂理にかなったことなのだ。

前回、つまり二年前の会合の際、次回は赤子から彼の研究活動について報告してもらうということになっていたので、その通り赤子から話をしてもらった。赤子は、「NGOは社会変革の主体になれるか」と題したレポートを用意し、それをもとに、世界のNGOの歴史についてと日本における活動ぶりについて一通り説明したうえで、NGOは「政治経済の枠組みそのものを変える主体にはなれない」と結論付けた。

そうした結論については、当然のことながら、何故そうなるのかという疑問が出された。いろんな見解が出されたが、例の9.11以後各国でナショナリズムが高揚し、グローバルなNGO活動に大きな制約となった事情が働いているのだろうということになった。小生などは、先日読んだ斎藤幸平ではないが、アソシエーションという形でなら、NGOが行き詰っているとまでは考えていないが、大方の意見は、NGOにとって、今は冬の時代ということらしい。

NGOといえば、先日アフガニスタンで殺された中村哲氏の活動もそれの一つのあり方だったと思うのだが、中村氏が殺されたのは、国同士の水争いに巻き込まれたという見方がある。中村氏が関わった治水事業は、アフガニスタンとパキスタンの国境をまたがって流れる川を対象にしたものだが、その川は、水量が非常に限られていて、かねてより水争いが絶えなかった。そこに中村氏が入ってきて、アフガニスタン側に過度に肩入れしているとパキスタン側から思われ、それが氏への怒りを掻き立てたということらしい。そんなわけだから、NGOには、自分の活動が関係国にどのようなインパクトを及ぼすか、十分な自覚が必要だろう。それについて小子などは、中村氏は自分の身の危険を十分認識しながら、活動を継続していたという。それなら、我々がとやかくいうこともないわけだね。

その話は置いておくとして、民間企業によるNGO活動をどのように考えたらよいのかね、という話が出た。民間企業がNGO活動にかかわるとしても、それはあくまでも功利的な理由によるものだろう。NGOは、NPOから発展してきた経緯からみても、功利的な目的とは無縁なはずだ、とこれは海外での活動経験が豊かな小子が強調していた。

ともあれ赤子は、タイを拠点にしながらNGOについての研究活動を続けてきたそうだ。これまで100回くらいはタイへ行ったという。そこで同僚には、なぜそんなにタイに行きたがるのか、もしかしたら不純な動機があるのではないかと勘ぐられもしたというので、たしかにそんなに頻繁にタイに出かけたがるのでは、現地妻がいると疑われてもしょうがないところがあるな、と小生などは思ったところだ。

島子は、久しぶりに学生時代の旧友と再会したとあって、学生時代の思い出をなつかしそうに語った。それが引き金になって、みな当時の思い出にふけった次第だった。それについては、特に石子が雄弁に語っていたが、何しろ小生とは席が離れていたおかげで、何を言っているのか、はっきりと聞こえなかった。ただ、島子が岩子にむかって、学生時代の武勇伝を共有したことを強調したのに対して、岩子が、そんなこと覚えておらぬわ、と言ったことを覚えている。

みな口角泡を飛ばして議論している中で、福子はいつものように寡黙である。時折発言するときは、低音で落ち着いた口調も相まって、なかなか説得力を感じさせる。このメンバーの中では、学生時代に一番元気のよかった男だ。

今宵は、久しぶりのフルメンバー対象の会合とあって、昔話を中心に話が弾んだ次第だった。これを機会にまた定例的に集まり、老いの憂さ晴らしをしようということになった。とりあえず次回は、年明けの一月にこの同じ場所でやることにしよう。


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