学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その三


 その日は秋もようやく深まりつつある九月なかばの満月の日に当たっていた。旧暦でいえば八月の半ばになるから、この月は中秋の名月と言ってよい。小生の佐倉の家は、縁側を隔てて外気に直接接している。その間には雨戸のほか障子一枚しか介入するものがないから、障子をあけ放つと家の内外の境はなくなる。小生は中秋の名月とて雨戸も障子も立てないまま、天上の月とその光に煌々と照らされた庭を見やりながら、英策との歓談を楽しんでいた。
 母が生きているうちは、庭の真ん中に花壇を作り一年中花を絶やさなかったものだが、いまでは手入れをする者がいないので、庭は荒れがちとなり、花壇もさびしい眺めになってしまっていた。それでも秋咲きの宿根草がいくつか花を咲かせて目を楽しませてくれた。月の光に照らし出された花を眺めながら盃を傾けるというのは、なかなか情緒を感じさせるものだ。もっともその夜我々が飲んでいたのは、盃にたたえた日本酒ではなくグラスに満たしたウィスキーであったのだが。
 「ところで」と英策は言った。「話は変わるが、お前は依田学海という人物を知っているか?」
 いきなりこう話を向けられて、小生はその人物のことなど聞いたこともなかったので、
「いや、知らない」と答えた。あかりさんとのことを追求されていささか食傷気味のところだったので、どんな話であれ話題がほかのことに代わるのは小生にとって都合のよいことだった。
「依田学海という人は、幕末から明治の前半にかけての人で、佐倉藩の幹部だった人だ。西村茂樹ならお前も聞いたことがあるだろう。その人と同じ時代の人だ。西村茂樹は明治初期の啓蒙思想家ということになっているが、もともとは佐倉藩の家老待遇くらいの身分の人で、佐倉藩のために色々と尽力したことが知られている。依田学海は西村茂樹ほど身分は高くなかったが、それでも藩の外交担当者である江戸留守居役をつとめたり、維新以降は新政府の設けた議会の代議員や、また政府の役人も勤めている。晩年は浪人生活をしながら、若い頃から好きだった演劇の世界に首を突っ込んで、下手な芝居を書いて余生を慰めていたようだ。まあ、経歴としてはたいしたことはないのだが、この人物が膨大な量の日記や随筆のたぐいを残していてね。それを読むと、幕末・維新期の佐倉藩の様子がよくわかるだけでなく、明治維新史を別の視点から見ることもできる。そういう意味で非常に面白い人物なのだ」
 依田学海なる人物について英策はごく簡単に話してくれた。だが、その依田学海をなぜ話題に出したのか小生には納得がいかなかったので、
「まあ、だいたいその人物の経歴はわかったが、その人物がお前さんになにか特別の意味でも持っているのかね」と尋ねてみた。すると英策は小生がこの話に興味を抱いたと受け取ったらしく、腰を据えて本格的な話題にしようとする姿勢を見せた。
「俺は今勤めている佐倉の役所の関係で、郷土誌の編纂に携わっているんだが、そのからみでこの依田学海という人物に出会い強い興味を感じたのだ。この編纂にはさまざまな人がかかわっていて、それぞれが佐倉藩の郷土史を色々な角度から取り上げている。俺の場合には、幕末から維新にかけての佐倉藩の動き、言ってみれば佐倉の近代史とでもいうようなものをテーマにしているんだが、その佐倉の近代史を解釈する視点として、この依田学海の抱いていた思想というか、考え方みたいなものが手がかりとなるんじゃないか、と思ったんだ。それは日本の近代史についての常識的な見方とは随分ずれているところがあるんだが、ああ、こんな見方もあったのかと気づかされるところもある。そんな具合で、とても興味深い人物なんだ。俺はこの人物のことを手掛かりにして、日本の近代史を見直ししたら面白かろうと思っているんだが、どうだい、お前もよかったら俺と一緒にこの人物のことを調べてみる気はないかね。一人でやるよりは仲間がいたほうが研究は進むと思うし、第一、一人でやるのでは張合いがないからね」
 いきなりこう言われても、小生には答えようがなかった。いくら英策が興味深いと太鼓判を押したところで、それは英策にとっての興味であって、自分も同じ興味を持つようになるとは限らない。
「お前さんには面白いことが、俺にとっても面白いとは限らんからな。まだなにも知らんうちから、その何も知らん人間に興味を抱くだろう可能性はそんなには期待できないだろうから、まずその人物がどんな人物だったのか、単に知るだけではなく、面白い人物だと合点できるような知り方をするのが先決ではないかな」
 小生は自分でもあまりわけのわからぬままにこんなわけのわからぬことを言ったのだったが、その口調に英策はますます小生がこの話題に関心を深めていると勝手に受け取ったらしい。この依田学海なる人物について、さらに説明を続けるのだった。
「依田学海は二種類の日記を残しているんだ。一つは学海日録といって、安政三年から明治三十四年までをカバーしている。学海は天保四年、西暦1834年生まれだから、満二十二歳から六十七歳までの四十五年間の日記だ。これを学海は多少の中断を挟みながらも延々と書き続けた。学海にはこの他に墨水別墅雑録というものがあって、これは面白いことに、別宅で囲っていた妾との交情を中心に書いている。つまり学海という人間には、表向きと裏向きの二つの顔があって、それを交互に付け替えて生きていたということなんだ」
「本宅で日記をつける一方、別宅でも妾とのことを日記につけていたわけか。記録摩というやつだな」
「まあ、ちゃかさないで聞けよ。本宅の日記は他の多くの随筆類とともに無窮会文庫が保存していた。無窮会というのは総理大臣をやった平沼騏一郎の私的なコレクションだ」
「平沼騏一郎ってのは、大逆事件をフレームアップした男だろう。そんな男とこの依田学海なる人物とはどんな関係だったのかね?」
「いや、学海自身と平沼騏一郎との間には直接の関係はなかったらしい。学海の日記がなぜ平沼のコレクションに入ったのか、そのいきさつはよくわからない。いずれにしても学海の日記本体とはかかわりのない話だ。一方、墨水別墅雑録のほうは韓国国立中央図書館に保存されていたものを、日本の国文学者である今井源衛が偶然発見した。これはもともと朝鮮総督府の蔵書だったものを、植民地支配清算後に韓国の国立中央図書館に移されたものらしい。今井は国文学者で平安時代の女流文学が専門だったにかかわらず、自分の専門外である明治初期の貴重な資料であるこの日記を出版した。吉川弘文館から出ているが、これが実に面白い。原文は漢文で書かれていたが、今井がそれを読み下し文にしているので、我々でもたやすく読むことができる。これと学海日録とを併せて学海の日記を読んでみたらいい。その価値は十分にある」
「その価値というのは、歴史的な資料としての価値かね。そうだとしたら俺にはあわないかもしれないな。俺には古文書を読む趣味はないからね」
 英策が熱心に依田学海の学問的意義などを云々するものだから、小生も学問的な見地からこう答えたのだったが、英策にはひるむ様子はない。さらに話を続けるのだった。
「いや、古文書を読むような感覚ではないんだな。言ってみれば私小説を読むような感じか。とにかく面白い。とくに墨水別墅雑録のほうは、妾との痴話喧嘩を漢文でしかめつらしく書いているところがなんともユーモアを感じさせる。この妾は十四歳の時に学海の家の下婢として入り、後に学海の妾になった女性だ。なかなか学識もあったようで、主人学海との間で漢詩の贈答をしたりもする。おそらく学海が漢詩始め学問の手ほどきをしたのだろうが、それに応えることができるほどこの女性は筋がよかったらしい。だから学海の愛しようは尋常でなかった。学海はこの女性を向島に住んでいるときに雇い入れ、後に都心に移居したあとは、向島の家を別荘として、そこにこの女性を住まわせ、月に何度かのペースで訪れたということが、この墨水別墅雑録と日記本体から窺い知ることができる」
「ほお、こんなに詳しく依田学海のことを語るというのは、お前さんも随分この男にいかれたらしいな」
「いや、いかれる価値は十分にあるよ。だからお前もまず学海の日記を読んでみろよ。退屈なら途中でやめるもよい。おそらく退屈はしないはずだ。お前ならその日記をもとに本の一冊でも書く気になるかもしれない」
 小生はしがない月給取りだが、日ごろ随筆とも小説ともいえぬ愚にもつかぬ雑文を書き散らしては楽しんでいる趣味があったので、英策はそれを持ちだして、小生の依田学海への関心を煽ろうと考えている様子がよく伝わってきた。小生には歴史学の趣味はないので、依田学海を歴史学の対象として受け取る筋合いはないが、雑文の材料としてなら関心を持てるかもしれない。そう英策は考えているように見えた




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