学海先生の明治維新
HOME ブログ本館 東京を描く 日本文化 知の快楽 英文学 プロフィール掲示板


学海先生の明治維新その五十三


 明治四年の正月を学海先生は東京で迎えたので、元旦には礼服を着て皇居に参朝し、大広間で天顔を拝した。また四日には神祇官に赴いて三殿を遥拝した。先生はすでに集議院議員を解任されていたが、国家に特別の功があったとしてこれらの参拝を許されたのであった。それについては、先生の方も誇りのようなものを感じたらしい。新政府を牛耳る薩長の芋侍たちは気に入らぬが、国家の象徴たる天皇や神祇官には相当の敬意を表したのである。
 この先もしばらく東京に滞在することになりそうなので、暮のうちに妻子を呼び寄せていた。細君はまだ生まれて間もない美狭古を抱いてやって来た。
「東京はやはりいいものですね。佐倉では芝居も見られませんが、東京では気晴らしの種がたくさんあって退屈することがありません」
「そのうち母上も来られると思うから、芝居でも案内してさしあげなさい」
「でも幼い子を抱えていては遠出するわけにも参りませんし」
「子守を雇えばよい」
「子守は雇えても乳を飲ますわけにはまいりませぬ」
「オヌシの乳の出はよいのか?」
「何とか出ております」
 こんな具合に細君と話すのも学海先生にとっては気晴らしになるのだった。
 屠蘇気分もさめやらぬ頃、学海先生は領内の刃傷沙汰事件に直面した。これは藩士富樫権平の妻が殺害され家に火をかけられたという事件であったが、その犯人は屋敷に雇われていた役夫九左衛門に違いないとしてその行方を追っていたところ、九左衛門は盗んだものを持って品川の妓楼に投じたという情報があった。そこで藩では品川に人を派遣して捉えようとしたが、九左衛門は妓を伴なって遁走したという。この事件の解決に学海先生自らあたることとなったのである。
 捜査を続けた結果、九左衛門は東京市内に潜んでいるところを捉えられ、渋谷の藩邸に引き立てられて来た。そこで学海先生自ら取り調べに当たったが、九左衛門はなかなか口を割らない。だが拷問を命じて痛めつけさせると、苦しさに堪えかねて白状した。九左衛門は金に困って権平の妻に無心したところ、妻は自分の蓄えから金を出してくれた。それを見た九左衛門は欲に目がくらみ、妻を縊り殺して金を奪い、衣服をかすめ取って品川に遁走し、追い詰められて妓を盗んで走り去ったということであった。学海先生は九左衛門に死罪を申し渡した。
 こんな具合に明治維新以後しばらくの間は、なお各藩で刑事行政に当たっていたのである。
 学海先生は仕事の傍ら遊ぶことも忘れなかった。九左衛門の件について報告を受けた翌日には、かつての仲間数名とともに亀戸に赴き、天神を拝した後梅園で花を見、その足で船を深川に回して、松の戸女史を訪ねて大いに遊んだ。松の戸女史とは昔なじみの妓である。
 また汐留の船宿から船を出して墨水に梅を見ようとしたが、幹事がずっこけたおかげで花見は中止、そのかわり福知山邸に仲のいいのが集まって妓をあげて大いに遊んだ。
 これらの遊びに際して学海先生は詩を賦したり歌を詠んだりするのが常だった。それに対して妓のほうも歌を返した。まさか女の身で漢詩をつくる妓はいなかったはずだ。
 一月九日には参議廣澤真臣が殺された。廣澤は新政府の要人で、東征の際には西郷とともに総参謀を勤めた男である。木戸孝允とともに長州藩閥を代表する人物でもある。それが殺されたというので、政府は血眼になって犯人を上げようとしたが、杳としてわからない。
 学海先生はこの事件を攘夷派の仕業だと見た。梁川藩の広田彦丸というものが客気を好んで攘夷の説を立て、党を糾合して当路の大臣を斬殺せんと呼びかけたところ多くの同志が集まった。それを察知した梁川藩が広田を捉えて尋問せんとしたが広田は逃れ去った。今回の廣澤斬殺はこの広田の仕業に違いないと学海先生は思ったのである。
 一昨年の九月には長州藩の大村益次郎が殺され、二月には肥後の変人横井小楠が殺された。どちらも新政府に不平を抱く攘夷派の仕業であった。彼らは薩長が攘夷を掲げて権力を奪取したにかかわらず、いざ自分が権力の座に着くと開国を推進しているのが許せなかったのだ。横井の如きは薩長藩閥ではないが、開国を唱えるばかりか天皇制を廃して共和政体をとることを主張している。これはわが国の国体と相容れない。そんな風に思っている連中が、この一連の暗殺事件をひきおこしたのだろうと学海先生は推測したわけである。
 学海先生はわが国の国体については深く考えることがなかったが、最近この言葉を連発する人については、彼らの意見を聞くごとに違和感を覚えずにはいられなかった。ある日も小野宣教判官なる人と親しく話す機会があったが、先生は判官の言い分にどこか時代をずれたところを感じないではいられなかった。宣教判官というのは、国民を教導して神道を普及宣教することを使命とする職である。
「世の人々は本居宣長、平田篤胤の著書を読んで、我が国の道はかくあるべしと思ってござる。また若き人々は是非ともその道を実現すべきと主張しておる。されどこれは僻事というべきでござる」
「というのは、どういう意味でござるか? 神道は本居・平田の説の上に成り立っておるのではござらぬか」
「かならずしもそうではない。本居・平田以外の説でも、和漢有用の説は採用すべきでござる」
「それはもっとものことです。されば貴殿は儒仏もまた有用と考えてござるか」
「いや、儒仏は無用でござる」
「では有用なる和漢の説とは何をさして言われるのでござるか?」
「記紀に書いてあることはいうまでもなく、漢学でも実用にわたるものは採用すべきなのじゃ」
「例えば?」
「例えば本草学とか自然に関する学じゃ。精神に関するものは無用でござる」
「西洋の説はいかが」
「それも同様じゃ、医学や兵学など実用の学は大いに取り入れてよろしい。しかし精神にかかわるものは排除せねばならぬ」
「排除すべきものでもっとも意を用いるべきは何でござろう?」
「耶蘇教じゃ。耶蘇教はわが国の国体と相容れぬ」
「どういう理由でそう言うのでござるか?」
「耶蘇教はわが国の天子に代えて異国の天子をいただこうと主張しおる。我が国の天子は恐れ多くも天照大神の直系の子孫じゃ。耶蘇は人の子に過ぎぬ。しかも異国の人の子じゃ。その異国の人の子を天子と仰ぐものは、我が国の国体と相容れぬ。殲滅せねばならぬ」
 小野宣教判官の言い分は一見理に適っているように見えて、でもそうでもないように聞こえる。何より学海先生が気に障るのは、判官が儒仏を敵視していることだ。いま関西方面では廃仏毀釈が盛んだと聞くが、仏を廃することは人々の善良な心まで損なうことにつながるのではないか。神道といってもたいした中身があるわけではない。国体々々と言って騒いでいるだけのことで、人々の内面を豊かにしてくれるものではない。学海先生はそんなものに大きな価値を認めることができなかった。
 桜の花が咲く頃、学海先生は洋服を着、靴を履いて上野の山に花見に出かけた。上野の山は例の戦争があって建物の殆どが焼失しはげ山のようなありさまを呈するに至ったのだが、それがかえって市民の行楽地として、大勢の人々を集めるようになっていた。
 上野戦争と言えばすぐさま西郷隆盛の名が浮かぶ。その西郷は維新後鹿児島に引っ込んでしまったとはいえ、まだ維新の英雄としての名声を誇っていた。
 西郷贔屓が多いと見えて、学海先生は方々で彼らが西郷を礼賛する言葉を聞かされた。ある時は、かつての仲間と催した宴会の席で、旧知の桜井熊一がたいそう西郷を褒めた。
「西郷は不世出の傑物というべし。西郷あらざりしかば今日の日本もあらず。いまだ徳川封建時代が続いておったじゃろう」
「西郷はそんなに偉いのかの?」
「無論じゃ。西郷が討幕派をまとめたために我が国が動いたのじゃ」
 このように手放しで桜井が西郷を褒めるので、学海先生はいささかうんざりさせられた。
「貴殿はそう言われるが、王政復古は西郷一人の業績ではあるまい。長州の木戸孝允も大きな働きをしたはずじゃ。また西郷の議論がどのようなものだったか、それを知る者はほとんどおらぬ。ということは、西郷には国のあり方についての理念がなかったということではあるまいか。理念なきものに大業の功績を帰せしむるのは行き過ぎではござらぬか。これでは芝居小屋の拍手喝さいと異ならぬではないか」
 学海先生はだいたいにおいて薩長嫌いなところがあったが、とくに西郷は好きでなかったようである。要するに先生にとって西郷は、討幕派の一巨頭に過ぎなかった。日本の恩人とは見ていなかったのである。
 一方長州の木戸孝允に対する学海先生の見方には甘いものがあった。木戸は芸者遊びが好きで、維新後も政務よりは芸者と遊ぶことを好んだ。人はそれをそしるが、しかし了見が狭いと言うほかはない。英雄は色を好む。だから木戸の如き英雄が多少の芸者遊びに興じたからと言って、目くじらを立てることもないだろう。そう先生は考えていた。




HOME | 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである