学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その六十九


 郵便報知新聞を舞台にした学海先生の活躍はそう長くは続かなかった。社長小西に迎えられた古沢滋が紙面を洋風の議論で埋めるようになり、それに伴って社員にも洋学者を多く用いるようになったため、学海先生のように漢学をベースにした議論は次第に浮き上がるようになってきた。そこで先生はもはやこの新聞社に自分の居場所はなくなったと感じて、自ら身を引いたのであった。時に明治八年三月十四日、採用されてからわずか四か月後のことであった。
 学海先生はかくしてまたもや浪人の身になってしまった。そんな先生を西村茂樹が心配してくれた。
「オヌシは郵便報知をやめたそうじゃな」
「はあ、どうもそれがしの性には合わないので」
「どこが合わぬのじゃ」
「郵便報知は近頃洋説を重んじるようになりまして、それがしのような漢学者は社風に合いませぬのじゃ」
「すると、やめされられたのか?」
「いや、そうではなく自分から辞めました。これ以上いても面白くないと思いましたので」
「で、今後の身の振り方は考えておるのか?」
「考えていないこともありませぬが、まだ決まってはおりませぬ」
「どうじゃ、文部省に出仕する気はないか?」
「文部省ですか?」
 実はこの時西村茂樹は文部省に出仕して、漢土歴史編集の事にあたっていた。その手伝いとして学海先生を抜擢してやろうというのである。
「どうじゃ?」
「それがしは平生より漢土の歴史には強い関心を抱いておりますので、そういう仕事なら向いているかもしれませぬ」
「じゃあ、やってみるか?」
 ということで、先生は西村茂樹に文部省への士官の斡旋をお願いすることになった。
 ところがその話が正式に決まらぬ先に友人の川田甕江が訪ねて来て、別の仕官口を紹介した。それは新しく儲けられる地方官会議の事務局に書記として仕官するというものだった。
「地方官会議とはいかなるものじゃ?」
「府県の知事・県令を集めて国事の方針を審議させるというものじゃ。オヌシも関わった集議院が衣替えしたようなものじゃ。集議院は公務所の発展したもので、各藩の代表を集めたというものじゃったが、地方官会議はそれに代えて府知事・県令を集めたものじゃ」
「ほう、それは面白いな。実は西村氏を介して文部省への士官の話もあるのじゃが、まだ決まっておらぬ。それが決まるのを待つか、それともオヌシの誘いに乗るか、迷うところじゃ」
「実は地方官会議の仕事は臨時的なもので、その後引き続き修史局へ異動することになっておる」
「それはどういうことじゃ」
「地方官会議は一回か二回で終了してしまうのじゃ。その後には元老院というものが設けられ、国事にかかわる重要事項を審議する段取りとなっておるのじゃ。これにはいきさつがあっての」
「どういういきさつじゃ」
「土佐の板垣が参議をやめて民選議院設立建白書を発表したことはオヌシも知って居ろうが?」
「はあ」
「その板垣をいつまでも野に放って置くと兎角不都合だと思った大久保が、板垣と妥協する代わりに板垣を政権内部に引き込んだのじゃ。その妥協とは、板垣が主張するような衆議の機関を作る代わりに、板垣は政府に入って大久保らに協力するというものじゃった。そこに木戸も一枚からみ、その議院を地方官で埋めようということになった。こうして地方官会議が木戸の主導で立ち上がることになったのじゃが、大久保はそれとは別に元老院というものを作って、それに国事についての審議をさせることとした。そんなわけで、長期的には元老院がこの国の立法を担うこととなり、地方官会議はその前段としての過渡的な会議として位置付けられることとなったのじゃ」
「すっきりせぬが、わからぬでもない。で、我が国の立法権は将来元老院が担うことになるのかの?」
「それはわからぬ。この元老院は板垣の言うような立法機関とは似て非なるもので、単に政府から示された方針を審議するだけのようじゃから、板垣がいつまでも納得するとは思えぬ。いずれ本格的な立法機関の設置を求めて再び運動を起こすようになるじゃろう」
「いずれにしても我が国の政治の基本については、大久保や木戸公などの薩長藩閥勢力が相変わらず舵をとっているというわけじゃの」
「そういうことじゃ。どうじゃ、地方官会議の仕事をやってみるか?」
「そうじゃの。西村氏には悪いが、こちらのほうが面白そうじゃ」
 こうして学海先生は地方官会議の書記として仕官することとなったのだった。
 その地方官会議の第一回目の会議が六月二十日浅草の東本願寺で開かれた。天皇が臨席し、木戸孝允が議長をつとめた。出席者は大臣・参議・元老を始めみな豪華絢爛な礼服に身を包んでいた。肝心な議題は道路堤防橋梁のことなど五項目にわたったが、政府からその趣旨の説明があった後は実質的な審議もなく、単に形式に堕したという印象を学海先生は受けた。ともあれ先生は福地源一郎ら同僚の書記官と共にその場にかしこまっていた。
 七月一日には浜離宮で地方官を集めた園遊会が開かれ、その場にも天皇が臨座した。そして七月の十七日には三度天皇の臨座を仰ぎながら地方官会議は解散した。その業績には全くと言ってよいほどの成果はない。ただ単に衆議を経たという体裁を取り繕ったにすぎなかった。
 地方官会議が解散した翌月には、学海先生は修史局に参上したのだった。これ以来明治十八年に罷免されるまで学海先生は政府の役人として過ごすこととなる。
 こんなわけで西村茂樹からの誘いを一方的に無にしたことを申し訳なく感じた先生は、或日西村を訪ねて詫びを言った。
「このたびは先輩からのありがたいお誘いを無にするようなことになりまして、まことに申し訳なく存じまする」
「まあ、そんなに気にすることもない。結果的にはワシが勧めたのと同じような仕事をすることになったわけじゃ」
「さようでござる。それがしの仕官することとなった修史局と申すは、我が国の正史を記録しようというもので、責任重大だと思っております。ところで先輩は士官の傍ら明六雑誌に寄稿するなど、なかなか多忙のようでござりまするな」
「明六雑誌は、オヌシもよく存じておる福沢らとやっているものじゃが、ワシと福沢とは必ずしも意気投合というわけでもない。福沢は洋学一辺倒じゃが、ワシはそれではいかぬと思っておる。技術を洋学から取り入れるのはよいが、日本人の精神まで洋学では鍛えられぬ。そこはやはり伝統的な漢学の出番じゃと考えておる。そこでワシは最近昔の漢学仲間との交遊も盛んにしておるのじゃ。その会を洋々社というのじゃが、どうじゃ、オヌシもそこに加わらんか?」
「それは面白そうな会でござりますな。それがしも是非入れてくだされ」
 こうして学海先生は漢学者の会である洋々社の会合に頻繁に出るようになったのだった。
 また藤森弘庵門下の同輩たちとも交友を深めた。八月の十一日には、小崎公平が音頭をとって川長楼に宴会を催した。川田甕江、鷲津毅堂、横山徳渓、渥美正幹、増田賛、大野誠ら同門のもののほか、小野湖山、三島中洲、森春濤等門下ではないが翁の生前親しかった人々も参加した。
 この前後学海先生は転居を繰り返した。日本橋は喧噪の巷で住むにはふさわしくないと思った先生は静かな墨東に居を求めんとして探し回った。なかなかいい家が見つからないので、ひとまず洲崎村の青雲寺という尼寺を借りて仮住まいをし、その後寺の近所の土地百十坪を買い取った、先生はこの土地に家を普請したのである。
 その頃学海先生は金杉の河原崎座で団十郎の芝居を見た。外題は吉備大臣支那物語といって、この年初に参議大久保利光が天皇の使節として清国へ赴き、かの地で大活躍する様を演じていた。これは琉球人が台湾人に虐殺された事件に関して、その処置をめぐって日本が清国に譲歩を迫った史実を踏まえた芝居であったが、その芝居の中の大久保が、まるで日本国王のような態度を気取っている。それを見た学海先生は大久保のその態度に有司専制の見本のようなものを感じたのであった。
 学海先生が思うには、薩長は王政復古の立役者故に、薩長人が威張るのはある程度仕方がない。徳川だって家康が天下を取った後は、その一族郎党が我が世の春を謳歌したものだ。だがそれにも限度と言うものがある。大久保の如く権力を独占して思うがままにふるまい、挙句の果ては天子をなみするに至るのは到底許しがたい。そんなふうに思えるのであった。それにしても大久保という奴は実に人を操るのがうまい。こやつの手にかかったら、だれもが肝を抜かれてしまう。実に憎い奴じゃ。そう先生は重ね重ね思うのであった。
 その先生は毎日修史局へ参勤して、国史の編纂に従事していた。修史局には川田甕江が上司として居て、なにかと心強かった。また国史の編纂という仕事も先生には気に入っていた。その仕事は我が国の時代をいくつかに区分して、それぞれの時代を各課が分担することになっていた。学海先生は後水尾天皇の慶長七年より同帝元和八年まで十一年間の歴史を担当することとなった。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
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