学海先生の明治維新
HOME ブログ本館 東京を描く 日本文化 知の快楽 英文学 プロフィール掲示板


学海先生の明治維新その七十一


 柳北居士の政府攻撃の手は五日間の自宅禁固に処せられたくらいでは引っ込まなかった。禁固の期間があけた後、以前に増して政府批判を強めた。末広鉄腸が自宅禁固から解放されると彼を朝野新聞の編集長に迎え、二人三脚で政府批判を続けた。その末広は井上薫に呼びつけられて政府の役職を提供すると言われたが、その懐柔を策せることを見抜いた末広は、断固その誘いを拒絶していた。そんな末広のジャーナリストとしての気概を柳北居士は高く評価したのである。
 柳北居士は彼一流の諧謔を駆使して政府の要人たちを皮肉った。その中に讒謗律と新聞紙条例の起草者と目された井上毅と尾崎三郎への攻撃があった。これが政府の弾圧に口実を与え、柳北居士らは監獄にぶちこまれる羽目に陥るのだ。
 その攻撃は明治八年十二月二十日付朝野新聞の記事においてなされた。この記事の中で柳北居士は、井上毅と尾崎三郎をそれぞれ井上三郎、尾崎毅と架空の名にしたうえで、その二人を次のように表現して攻撃したのである。
「当時両個の士人有り。一を井上三郎と云ひ、一を尾崎毅と云ふ。共に才学有て頗る狡猾の術に長ぜり。能く当路君子の意旨を迎合し、以て唯利をこれ視る。我輩が法律制度の利害得失を論駁すること有る毎に、彼の二人は必ず我輩を目して誹毀とし、讒謗とし、勉めて我輩の口舌を箝し、我輩の志を抑圧せんとせり・・・然るに彼の二人は今や既に死して其醜名を一杯の土下に留めたるのみ。嗚呼、亦憫む可きかな、若し彼の二人をして猶生存して今日開明の形勢を見せしめば、即ち驚愕して羞死せん乎。将た猶其の狡猾の術を墨守し、巧みに其の説を粉飾して当路の人を惑はし、我輩を困迫せしめんとする乎。未だ其如何を判ずる能はざる也」
 これに対して井上毅と尾崎三郎は、早速東京裁判所に告訴した。讒謗律第八条の規定、
「凡そ讒毀誹謗の第四条第五条に係る者は、被害の官民自ら告ぐるを待てすなはち論ず」を踏まえた処置であった。
 まず編集長の末広鉄腸が一月十日に、ついで執筆者の柳北居士が一月十五日に、それぞれ東京裁判所に呼び出された。二人は口裏を併せて、記事中の井上三郎と尾崎毅が実在する人物だと主張し、井上毅と尾崎三郎を讒毀誹謗したものではないと主張した。これに対して井上と尾崎は、これらが自分たちを讒毀誹謗するための名前の言いかえであると反論した。当時の裁判手続きにおいては、こういう案件では被告の自白がほとんど唯一の証拠とされていた。ところが二人とも自白をするどころか、取調官との間に蒟蒻問答を繰り広げてなかなか埒が明かない。
 そんな折、取調判事に異動があって、能吏と言われた鎌田判事が担当することとなった。鎌田は二人を東京裁判所から監獄所に移送し、そこで拘留した。拘留された二人は、監獄の寒さに耐えきれず、ついに鎌田の用意した供述調書にサインしてしまった。
 こうして二人に有罪判決が下された。末広鉄腸には禁獄八か月罰金百五十円、柳北居士には禁獄四か月罰金百円の刑が下った。
 二人は昨年出来たばかりの鍛冶橋監獄に放り込まれた。この監獄は西洋の監獄をモデルにしており、十字形の建物の中央に監視塔があるパノプチコンの構造をしていた。
 柳北居士が鍛冶橋監獄にぶちこまれたのは二月十三日のことであるが、それからしばらくして学海先生は監獄に柳北居士を見舞った。監獄の食事は粗末だと聞き、栄養をつけてもらおうと、鶏卵を土産に持参した。三月三日のことであった。
「このたびはとんだ目に遭いましたな。これは鶏卵でござる。監獄の食事は粗末だと聞きましたので、栄養をつけてもらおうと持参いたした」
「それはご丁寧に、ありがとうござる」
「先般は自宅禁固で済みましたが、このたびはかかるところへ放り込まれ、さぞ不本意でしょう? それにしてもこの建物は奇妙な形をしておりますな」
「これは西洋の監獄を真似て作ったものです。パノプチコンと言いましてな、建物を十字形に配して、そのど真ん中に監視塔を設け、そこから各監房が一望できるように作っております。僕はこれを西洋旅行中に初めて見たのですが、その折は随分機能的に出来ておると感心したものです。その時はまさか自分が日本でそれと同じようなところに放り込まれるとは思いもよりませんでしたよ」
「監獄での生活はかなり窮屈でしょう」
「一番困るのは自由に本を読めん事です。それに看守たちは旧時代の牢番をそのまま使っておって、これがまたひどい連中でしてな。我々囚人を人とも思わぬ扱いをする。施設は西洋の真似をして進歩的だが、中身は旧態依然というわけです」
「衛生状態はどうですか?」
「糞尿は坊内に置いてあるバケツのなかに垂れ流します。だから坊内にはいつも悪臭が立ち込めている」
 そう言われて学海先生は改めて坊内の匂いを嗅いでみた。たしかに悪臭が漂っている。
「四か月とは長いですな。その期間本も読めずにこんなところでくすぶっているのは耐えがたいでしょう?」
「いや、今のところ命の危険を感じることはないので、命さえあれば将来への期待も消えないものです。四か月などすぐ過ぎてしまうでしょう」
「釈放された後も、やはり政府攻撃を続けられるおつもりか?」
「それは野暮な質問というものです。攻撃するか否かは相手方の政府次第、政府が非を改めずに人民を迫害するならば、それを批判攻撃するのみです」
 こうした柳北居士の意気に学海先生はすっかり感心した次第だったが、自分自身は決してそのような事をする気にはなれないだろうと思った。先生には生まれながらに争いを好まない性質が埋め込まれているようなのである。
 学海先生が訪れた日の数日後、民権家で知られた植木枝盛が柳北と同じ房にぶち込まれて来た。郵便報知新聞に載せた「猿人政府説」をとがめられて禁獄二か月の有罪判決を受けたのであった。
「これは自由民権で名高い植木枝盛殿。こたびはいかなる罪状でここへぶち込まれましたか?」
 柳北居士がそう問いかけると植木枝盛は畏まった様子で、
「これは自由民権の先輩成島柳北先生ではありますまいか? 先生のことは娑婆で聞き及んでござる。拙者がここにぶち込まれた理由と申すはほかでもござらぬ。政府が讒謗律、新聞紙条例を以て天下の言論を抑圧し、人民をもの言わぬでくの坊にしようと企んでいることを称して猿人政府と罵ったところ、彼らの逆鱗に触れたというわけです。猿人政府とは、政府の役人も猿なら、彼らに訓導される人民も猿にさせられてしまうという皮肉を込めた言い方です」
「それは痛快じゃ。そなたはまだ若いというのに、なかなか気骨がありますな」
 柳北居士は六月十一日に出獄したが、解放されるやすぐに「ごく内ばなし」と題する一文を朝野新聞に載せ、監獄での暮らしぶりとそこにおける政府の人権抑圧を紹介・攻撃した。
 入獄中のある日居士は散髪を施されたが、その際に両手に鎖を施された。このことを居士は取り上げて次のように書いた。
「其の罪を獲るは常に口舌に在り。其口を箝し、其舌を抜くは敢て辞せずと雖も、僕が手に於てはまた何の罪有て之を鎖したるや。忽ち隣房に声有て曰く、足下の筆は足下の手の役するところならずやと。僕負けずに答へて曰く、筆は右手の使ふところ左手は何の罪かある。又大声有て曰く、左手は従を以て論ず、禁獄四か月罰金百円。僕また一語の抵抗すべきこと無かりし」
 また六月二十八日には浅草の観音堂で、新聞供養大施餓鬼を催した。これは観音堂の正面に巨大な卒塔婆を立て、それに向かって三十六人の坊主たちがお経を唱え、各新聞社の代表たちが卒塔婆に向かって香を焚き、祭文を朗読するというものだった。政府の大弾圧で日本の新聞が死に絶えたことを皮肉ったわけである。
 こうしたパフォーマンスを通じて、反骨のジャーナリスト成島柳北の名声はますます上がった。その名声に伴って朝野新聞は売り上げを伸ばし、在京各紙のトップを飾った。その勢いで朝野新聞は、銀座尾張町にあった日新真事誌の社屋を買い取って言論の中心舞台に進出した。当時の銀座尾張町界隈は、言論の府と言われたくらいに、有力な新聞社が集まっていたのである。今の土地勘で言えば、銀座四丁目の交差点辺りに相当する。
 そんな勢いのある柳北居士を、学海先生はまぶしそうな目で見ていた。この男は政府の弾圧など屁とも思わず、身の危険を犯して己の説を公表してはばからない。安政の大獄の時にも、説を曲げずに弾圧され命を落としたものが多数いたが、彼らと比べても柳北居士の姿勢には痛快なものがあった。自分には果たしてそこまでできるかどうか。
 それにつけても学海先生は、居士が投獄される前に互いに交わした詩の贈答が思い出されるのであった。
 その折二人は柳橋の料亭で飲んでいたのだったが。まず柳北居士が学海先生に次のような詩を贈った。  
  満座春風暖々吹  満座の春風暖々として吹き
  綺楼買酔説情痴  綺楼に酔ひを買って情痴を説く
  羨見今日尋芳早  羨見す今日芳を尋ぬるに早く
  不似樊川緑葉詩  樊川緑葉の詩に似ざるを
 これに対して学海先生は次の詩で答えた。
  春風漫向掌中吹  春風漫に掌中に向って吹く
  偶爾再逢事太痴  偶たま再び逢ひて太痴を事とす
  畢竟浮萍亦何意  畢竟浮萍亦何の意ぞ
  今宵更賦定情詩  今宵更に賦す定情の詩
 この時の柳北居士は悠然たること陰士の如くであった。その人のどこに抵抗の士気がみなぎっていたか。学海先生は改めて柳北居士に感服したのだった。




HOME | 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである