学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その八十六


 小生が学海先生の史伝体小説を書き上げたのは六月末のことであった。小生としてはもう少し書きようがあると思わないでもなかったが、なにしろ初めての試みであるし、自分の能力を以てしてはこれくらいが限界だろうと思って筆を擱いた次第だった。書き上げるとすぐに原稿の写しを英策に送り、後で感想を聞かせて欲しいと頼んだ。
 七月に入ると小生は人事異動の辞令をもらった。行先は同じ財務局の中だが、営繕課といって、庁舎の建築に関わる部署だ。これまでのように議員とか外部の金の亡者とはあまりかかわりのない仕事で、世渡りの下手な小生にとっては、似合いの部署といってよかった。
 英策が小説を読み終えた頃合いに、小生は彼を宮小路の家に呼んで、色々と話を聞いた。いつものとおり摩賀多神社の隣のそば屋から出前をとり、そばを肴にビールを飲みながら話し込んだ。
「そうか異動したのか。今のポストはたった一年だったが、そういうのは珍しいんだろ、何か事情でもあったのか?」
「おそらく、上の配慮だと思う。俺は都議のあしらい方が下手なので、都議とはあまり関係のないポストにつけてくれたんだろう」
「なるほどね。で、お前は満足しているのかい?」
「ああ、満足しているよ。議員や金の亡者に悩まされることがないからね。それに技術屋というのは、性格がさっぱりしていて、気楽に付き合える。都庁の役人というのは、だいたいが食えない奴ばかりなのだが、技術屋には気持ちよく付き合えるのが多い」
 こんな時候の挨拶のような話から始めて、ひとしきり罪のない話をした後で、小生はやおら本題に入るよう英策を促した。
「で、どうだった、俺の小説を読んだ印象は?」
「うむ、まあまあうまく書けたんじゃないか。特に最後の部分に工夫を感じた。あれがあるおかげで、小説の中で並行して書かれていた二つの部分がうまく橋渡しされた感じだ。あれには、俺のアドバイスがきいているのか?」
「ああ、お前さんのアドバイスを参考にさせてもらったよ。たしかに、お前さんの言う通り、学海先生にかかわる本筋と作者である俺にかかわる部分とが、うまく結びついていなかった。そのままだったら、まとまりのないものになってしまっていただろう。そこをお前さんのアドバイスをもとに、なんとか橋渡ししようと努めて、あんな形にしたのさ」
「最後の場面では、お前の先祖たちのほかに、お前やお前のお袋さん、それにあかりさん母子やその先祖までが一堂に揃い、それが学海先生と一緒になって西郷の最後に立ち会うわけだ。そのため、小説のそれまでのいろんな流れがここで合流して、一つの壮大なクライマックスとなっている。実によく工夫されているよ」
「そうおだてられると、かえって変な気持ちになる」
「まあ、そう謙遜するな」
 というわけで、英策は小生の小説、とくにその最後のシーンを、うまく書けているといって褒めてくれたのであるが、小生としては、彼に褒められてもあまり得意になるわけにもいかなかった。 
 というのは、あの部分で小生が書いたことは、小生の想像に出たことではなく、小生が実際に体験したことだからだ。小生は自分自身で体験したことを、そのまま文章にしたに過ぎない。その体験がいささか浮世ばなれしているので、他人の眼には面白く映るのだろう。
 しかし小生は、そのことを正直には言わないで、これは小生の想像から出たことだと、英策に思わせたままでいた。英策には、学海先生が小生の前に現実に現われたということを話していなかったし、ましてや学海先生に導かれて明治十年の鹿児島に実際に行ったのだなどと、話すわけにはいかなかったのである。そんなことを話しても信じてもらえないだろうし、いわんや自分の死んだ母親とか、先祖はじめ遥か昔に生きていた人たちと現実に会ったなどと話せば、狂人と思われるに違いないのだ。
「あかりさんには読ませるつもりか?」
 英策はここであかりさんの話題に入って行った。
「いや、そうはならないと思う」
「内容がちょっとな。このままの状態で読ませたら、おそらく怒ると思うよ」
「内容もそうなんだが、もっと深刻な事情があるんだ」
「どんなふうに深刻なんだ」
「あかりさんは、もう俺とは逢わない方がいいと言っているんだ」
「これ以上不倫を続けられないというわけか?」
「まあ、簡単に言えばそうだ。実際にはそう簡単なものではないが」
「それはお前の気持が簡単にすむわけにはいかんということだろう?」
「そう、きつい言い方をするな」
 小生はいささかムキになった。
「俺としても、あかりさんと無理に会うことをせまるのは残酷かもしれないと思っているんだ。彼女と彼女の娘のひかりちゃんと、三人でこの世に戻ってきた後、俺たちはとりあえずこの家に立ち寄り、彼女らの着ていた和服を現代の服に着替えさせてやったりしたんだが、いざ自分の家に戻ろうとして、あかりさんは俺に言ったんだ。しばらくは独りにさせておいてほしいと」
「ほお」
「その言葉が俺には、あかりさんが永続的な別離を宣言しているように聞こえたんだ」
「また、どういうわけで?」
「今度ばかりはあかりさんも、自分の行為を娘の前で深く反省したに違いないんだ」
「まあ、それはわからぬでもない」
「そういうわけで俺としても、これ以上しつこく彼女に付きまとうのは良くないと観念したわけさ。だから折角書き上げたこの小説も、彼女に読んでもらうことはないと思う」
 そう小生が話すのを、英策は相槌の手を入れながら聞いていたが、そのうち小生の語り方が腑に落ちぬと見えて、小生に疑いの目を向けるのであった。
「お前も、随分と長くこの小説の執筆にエネルギーを費やして、頭が熱くなっているようだな。顔も多少ほてっているように見える。小説の執筆というのは、そんなにも大変なことか?」
「ああ、想像以上に大変だったよ。この小説を書いている間は、他のことにはほとんど手がつかないし、つねに頭が回転しているような気がしていた。精神がこのことに集中するあまり、すっかり勢力を吸い取られてしまうような感じなんだ」
「それで、いまでもうわ言のようなことを言いだすわけだな。いまのお前は、小説の世界と現実の世界との境が曖昧になっているように見える」
 そう英策が言うのを、小生は反論もせずに聞いていたが、そこで話題を肝心の学海先生に向けて、
「学海先生とはあれ以来会っていないんだ」と言った。
「依田学海とは小説の中で会うだけで十分じゃないか」
「いや、俺としてはもっといろんな話を聞きたいんだ。たとえば妾の瑞香のこととか、漢学者たちを中心にした交友関係とかね。それはそれで結構面白い材料になると思うんだ」
「そんなことは、依田学海の日記に詳しく書いてあるじゃないか。特に妾とのことは、特別に雑録を残して、そこに詳細に書いてある」
「それはそうだが、やはり本人の口から聞きたいこともある」
「本人と会って、その口から色々と聞きだすのは、お前の得意な事じゃないのか?」
 会話が一段落したところで、我々は連れ立って宮小路の家を辞し、最上町の方へ向かって一緒に歩いていった。
 小生は、小説を書き終えたところで、両親の墓に参りたいと思った。そこで小学校へ向かう路地の手前で英策と別れると、仲町の坂を下っていって、花屋で花を買い求め、袋町にある菩提寺に向かった。
 菩提寺の墓地は、折から暑気を催した空気に蝉の声が充満していた。暑苦しかった。
 小生は墓石に水をかけ、墓前に花を活け、線香の煙をくゆらしながら、墓石に向かって手を合わせた。この石の中には両親の骨が収まっているが、その魂ははるか天空の彼方にあるはずだ。その天空の彼方で両親の魂は仲睦まじくしているだろうか。
 小生のその問いかけに、石が応えることは、無論なかった。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
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