小石川後楽園(26×36cm ワトソン 2006年2月)

後楽園の名は宋代の詩人范仲淹の詩「岳陽楼記」の一説からとられた。「士は天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」の部分である。

これを水戸藩主徳川光圀に進言したのは明の亡命学者朱舜水であった。朱舜水は明の滅亡期に生きた人物で、度々日本を訪れている。晩年鄭成功による北征が企てられたとき、日本に援軍を求めて長崎に来り、そのまま日本に亡命した。朱舜水の深い学識を伝え聞いた光圀は、彼を江戸に招いて師事し、その指導を仰いで水戸藩の修史事業「大日本史」を完成させている。朱舜水の学問は朱子学の名分論を中心にした忠義の思想であり、後の国学にも大きな影響を及ぼした。

後楽園は初代水戸藩主頼房によって造営されたのであるが、光圀の時に完成した。その際光圀は朱舜水の意見を取り入れ、方々に中国風の景観を取り込んだ。円月橋や西湖の堤などであり、それらの多くは今日に伝わっている。絵は、大泉水西側にある丸屋付近を描いたもの。この庭園の中心部ともいえるところだ。いつ訪ねても、散策を楽しむ老幼男女の姿が絶えない。




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