吉田屋本店(26×36cm ヴェランアルシュ 2006年8月)
                
三崎坂を上り詰めた先に、道幅が広がって、ちょっとした広場のような観を呈している場所がある。江戸切絵図を見ると、その頃から今と変わらぬ様子に区画割されており、広場を囲んだ地域には、天王寺門前町或いは谷中茶屋町といった表示が施されている。これからわかるとおり、このあたりはかつて、天王寺門前の茶屋町として賑わった所なのである。谷中茶屋町の名称自体、昭和三十年代まで残っていたそうである。

三田村鳶魚翁の考証によれば、江戸の町々に茶屋ができたのは、寺社門前や芝居小屋周辺が中心で、当初はまず葦簾張りの粗末な小屋にすぎなかった。それが常店といって塗壁の堅固な建物に変わったのは、享保末年以降のことだという。浅草や上野山下など古くから賑わった所と並び、谷中の茶屋町も宝暦、明和の頃大いに栄え、笠森お仙のような娘が出て評判になった。場末も場末の谷中の茶屋がこんなにも人気をとったのは、いろは茶屋という私娼をかかえ、また感応寺の富によったのだと、鳶魚翁はいっている。

絵にある建物は、吉田屋といって、もと茶屋町の広場の南側に立っていたものを、区が譲り受けて別の場へ移築し、風俗資料館として公開しているものである。今建っている場所は、広場から南へのびる狭い路地が言問通りと交差する所の一角にある。資料館とはいっても、建物がでんと立っているだけで、大した資料が展示されている訳ではない。

建築年代は、明治中頃という。もと酒屋を営んだ商家だった由である。中に入ると土間があり、一段高い畳敷には格子で囲まれた帳場が設けられている。階段は急で、二階は主の一家の居間となっていたようである。この店の歴史は詳らかにしないが、この建物が立った明治の中頃には、この辺一帯は明和の頃の茶屋町の趣を脱して、ありきたりの町屋になっていたらしい。建物が持つ堅実な風情が、そのような歴史の変遷を感じさせるのである。




HOME東京風景次へ