観潮楼跡 (26×36cm ワトソン 2006年6月)            

根津神社の裏門を出て、日本医大横手の藪下といわれる路地を、北に向かって歩いていくと、やがて団子坂に差しかかる。

明治年間菊人形の出し物で有名だった所で、鴎外や漱石の小説にも取り上げられている。三四郎が広田先生に誘われ、美弥子らとともに団子坂の谷まで菊人形を見にゆく場面で、漱石は坂道の様子を次のように描写している。

「その谷が途中からだらだらと向へ廻り込む所に、右にも左にも大きな葦簾張の小屋を、狭い両側から高く構へたので、空さへ存外窮屈に見える。往来は暗くなるまで混み合ってゐる。其中で木戸番が出来るだけ大きな声を出す。<人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ。>と、広田先生が評した。それ程彼らの声は尋常を離れてゐる。」

当時の団子坂は幅二間程の狭い道筋だったから、この描写にある通り、道の両側に小屋が並んだのでは、空さえ窮屈に見える程混雑したに違いない。

森鴎外は、明治二十五年、団子坂の坂上の一角に居を構え、大正十一年に亡くなるまで住んだ。生涯鴎外を敬愛しつづけた永井荷風は、この鴎外邸を訪れた際の印象を、日和下駄の中の崖の項で書いている。

「当代の碩学森鴎外先生の居邸は、この道のほとり、団子坂の頂に出やうとする処にある。二階の欄干に佇むと市中の屋根を越して遙に海が見えるとやら。然るが故に先生はこの楼を観潮楼と名付けられたのだと私は聞伝へてゐる。」

事実は、鴎外自身潮を見ることはなかったらしい。ただ太古にはそのようなこともあったらしく、団子坂はまた汐見坂ともよばれたのであった。鴎外はその坂の名に因んで、自邸を観潮楼と名付けたのであろう。

鴎外の没後、観潮楼は亡失したが、昭和三十七年、跡地に鴎外記念図書館として今のような建物が建てられた。館内の一角には鴎外記念室があり、手稿や書簡、日記類などが展示されている。その筆跡を見るに、鴎外は女性の手になるようなやさしい字を書いたことがわかる。

建物の玄関に面した団子坂の勾配は比較的なだらかなのに対して、裏手は崖のように切り立っている。荷風が崖の項で取り上げた理由が納得されるのである。

この絵は崖にかかる階段の途中から見上げたものである。(平成十四年四月)




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