四方山話に興じる男たち
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新たなメンバーを迎える


四方山話の会の六月例会には、赤子が出席したいと事前にメールがあった。赤子の名前は無論憶えているのだが、名と顔が記憶の中で一致しない。なにしろ半世紀くらい会っていないわけだから、無理もない。だけれど、会ってみればきっと思い出すだろう、そんなふうに思いながら新橋の会場に赴いた次第だ。

いつもより遅いタイミングで会場の古今亭についてみると、石子が一人で待っていた。座席は六人ぶり用意されている。今日は随分少ないねと言いながら、座席につく。ややして梶、浦の二子が加わる。その時点でビールを飲み始めた。今宵はラベルに拘る者がいないので、アサヒビールが出て来た。そのアサヒビールを飲みながら四方山話を始めたところで、赤子があらわれた。小生は彼の顔を見た瞬間に、昔のかれの面影を思い出した。それほど変わっていなかったということだろう。口元にちょび髭を生やしているので、その髭は学生時代以来のものかと聞いたところ、いや卒業以後に生やし始めたという。なかなか似合っている。第一、年齢にしては黒々としている。黒いのは髪のほうも同様で、しかも量が多い。つまりいまだに若々しいのだ。

名刺をもらう。某専門学校の校長という肩書だ。専門学校とは何を教えるのかと聞いたら、日本語だという。安倍政権が実質的な移民政策を解禁したせいで、外国人の大量流入が予想され、日本語教育の需要が飛躍的に見込まれる昨今、日本語学校はいまや時代の花形ということらしい。赤子はその花形選手として、日本の未来を担っているわけだ。

赤子が加わったところで、この会の趣旨について、浦子が説明した。この会では、自分史と称して、会員銘々が、それぞれ自分の生きて来た人生を語ることになっている。赤子にもいずれ語ってもらいたいと思うが、今宵はその前哨戦として、差し支えない限りで、語って欲しい。そう浦子が言うと、赤子は卒業後のことをさらりと語ってくれた。石子と同じ組織にまずは就職したこと、その後、教育界に転身し、さる大学の教授を長くつとめたこと。定年後はこうして、日本語学校の校長をやっているといったようなことだ。赤子は、一見して如才ないタイプらしく、世の中を渡るのは上手と見えたが、本人の自覚では、無欲のほうなのだそうだ。もしもっと欲があったなら、政治家でも何でも、偉くなっていたタイプかもしれない。

そんなわけで今宵は、赤子の話題が中心となったが、その赤子は、学生時代のことを懐かしそうに振り返っていた。彼は梶子と同学年で、我々より一年下だったが、結構目立つほうだった。だから半世紀も時を隔てて、一瞬にして学生時代の面影がよみがえったのだと思う。

赤子に次いで、清子が話題になった。清子はあれ以来、ネットで仲間向けの交流サイトを立ち上げて、皆に参加を呼び掛けている。たいした馬力だ。そのサイトに、学生時代の仲間が大勢映っている写真をアップしていたが、あれを見ても、顔と名前がなかなか一致しない。自分がわかったのは、本人の清子のほかは、茂子くらいだった、そう言ったら石子が、藤子も映っていただろうと言う。小生はそこまではわからなかった。

ところで清子は、相変わらず熱の入った文章を書くが、熱が入りすぎて、文章に意味のつかみにくいところが目立つ。そう言ったところが、浦子も同調して、おれは時折清子の文章を添削して、もっと論理的な文章を書くように指導してやってるんだ、と自慢する。そして小生のほうに向って、お前も五十歩百歩だが、清子よりはましかもしれぬと言った。その小生は、この会の進行状況を記録する書記役として、自分が加わった限りでの会の状況を文章にして、サイトにアップしてきたところだが、そのサイトを赤子に紹介して、是非読んでみるように勧めたところだ。もっとも、メンバーの中には、小生のそうした行為を喜ばない者もいるのだが、と断ったうえで。


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