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十地経を読むその二:第一歓喜にあふれる菩薩の地 |
菩薩の十の地の第一は「歓喜にあふれる菩薩の地」である。これは菩薩道の修行の最初の段階で、さとりを求める心が生じることでその境地にいたる。さとりを求める心は、菩薩の道を究めて、ついには如来の境地にいたることをめざすが、その第一段階が「歓喜にあふれる菩薩の地」なのである。この地に立つことは、菩薩の十の位をすべて通り抜け、仏になる準備を整えることにつながる。無暗に修行するのではなく、計画に従って修行する。その計画はあらかじめ示されている。それは隊商のリーダーが出発に際して目的地までの道筋をすでに頭の中に描いているのと同様である。さとりを求め修行を始めた菩薩はすでに終着点を見据えているのである。そうお経は語り、これから菩薩が経めぐる修行の十の段階として菩薩の十地を説明するのである。 この第一の地についての説き方は、ほかのすべての地の説き方のひな型となるものである。まず散文で教えを説いたうえで、頌という形で韻文でそれを繰り返す。その点は法華経などほかのお経と通じるところがある。もっとも十地経の場合、頌はかならずしも本文の単純な繰り返しにはなっていない。また、このお経は、ほかのお経に比較して音楽的な要素が強いと言われる。もともと韻文で音楽的な頌にかぎらず、本文も音楽的だと言われる。それは言葉の繰り返しや定型的な表現の多用というところに現れている。このお経ほど、大袈裟な定型表現がくり返し唱えられるものはない。 ともあれ、菩薩の最初の地はさとりを得ようと願うことから得られる。その願いを大誓願といい、十の大誓願からなる。これは誓願であり、決意でもある。すなわち (1)「あますところなきあらゆる諸仏に、あらゆる種類のもっともよきものをささげて、あますところなき礼拝供養をなそう、そしてかぎりなく広大にして浄らかな信心をもって、余すところなき恭敬随侍をなそう、という大誓願」 (2)「あらゆる如来の説法された法の眼目を、エッセンスにまとめて伝承しよう、あらゆる諸仏のさとられた菩提をあますところなく守っていこう、という大誓願」 (3)「あらゆる諸仏のもとに一時に姿をあらわそうという大誓願」 (4)さまざまな菩薩行にもとづいて成長する菩提を求める心をおこすことを成就しよう、という大誓願」 (5)さまざまな衆生の存在を菩薩道に成就させよう、諸仏の法を体得させよう、あらゆる数のまよいの存在から自由にしよう、すべてを知る知者の知をさとらせよう、という大誓願」 (6)「十方のきわめて種々多様な諸世界を理解する知を体得し、観察しつつ思惟しよう、という大誓願」 (7)「さまざまな仏国土を、あらゆる衆生の道心のねがいのままに、彼らにあらわし示して満ちたらせてやろう、という大誓願」 (8)「あらゆる菩薩道を行じつづけてとだえさせないようにしよう、という大誓願」 (9)「あらゆる菩薩行を行じよう、という大誓願」 (10)真理の知にもとづいて、自身を如意なるままにあらわす神通力と、あらゆる美妙なるものを変現させる神通とを、あらゆる世界にあまねくゆきわたらせよう、という大誓願」 これら十種の大誓願は、おおむね菩薩の十地の一々に対応する。 これら大誓願を成就することで、十の観点からなる究極をきわめるとされる。それら十種の究極とは、 (1)あらゆる衆生をあらしめる衆生性(衆生界)の究極 (2)あらゆる世界をあらしめる世界性(世間界)の究極 (3)あらゆる空間をあらしめる空間性(虚空界)の究極 (4)あらゆる存在をあらしめる存在性(法界)の究極 (5)あらゆる涅槃をあらしめる涅槃性(涅槃界)の究極 (6)あらゆる仏の出現をあらしめる仏出現性(仏出現界)の究極 (7)あらゆる如来の知をあらしめる如来知性(如来知界)の究極 (8)あらゆる心の対象をあらしめる心対象性(心所縁界)の究極 (9)あらゆる仏の諸真実をさとる知の体得をあらしめる仏知体得性(仏知所入堺界界)の究極 (10)あらゆる世界の存続と、あらゆる法の存続と、あらゆる知の存続をあらしめる存続性(世界転法輪知転界)の究極 これら十種の究極の知は、菩薩道をすべて成就した結果得られるものであり、その段階で、仏となる資格ができるとされる。 そのような最高の段階の菩薩には、次のような十種の徳が備わる。すなわち (1)信心 (2)慈悲深さ (3)慈愛深さ (4)喜捨 (5)倦み疲れることのない忍耐力 (6)学問を知る知者であること (7)世間のことごとを知る知者であること (8)恥じらいと謙虚さ (9)堅忍不抜の気力 (10)如来に礼拝供養し恭敬随侍すること いずれにしても、第一の歓喜にあふれる菩薩の地は、菩薩道の修行の第一段階である。その第一段階に立った菩薩の前に、あまたの諸仏が眼前にあらわれる。誓願を働かせることで、肉眼で見るのである。その諸仏の数は、何百、何千、何百千、何百千億、何兆、何百兆、何千兆、何百千億兆というおびただしい数の諸仏である。数のおびただしさをこのお経はこのように表現するのである。 かくて菩薩の第一地に立った菩薩は、菩薩の第十地を目指して修行を積み重ねていく。「かの菩薩は、最初の菩薩の地を出発してより、ゆきづまって停滞することもなく、ついには第十の地へとすすみゆくのであるが、かくゆきづまって停滞することもなく菩薩道をすすみゆき、菩薩の地の知の光明があるところには、諸仏の知の光明があるのである」 かくてこのお経は、いたるところで光明に言及する。華厳とはその光明の厳かさを意味する言葉だと思う。 |
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