千住大橋(32×24cm ウォーターフォード 2002年11月)
家康は江戸防衛の目的から江戸周囲の川に橋を架けさせなかったが、千住大橋だけは例外で、入府後四年目の文禄3(1594)年に架けさせている。どういう理由が介在したかは詳らかではない。それ以後この橋は奥州道中の起点となった。
江戸期を通じて大水にも流されぬ名橋と謳われたが、明治18年の大洪水の際ついに流失。現在の橋は、震災復興事業のひとつとして、昭和2年に架けられた。タイドトラスト橋といい、当時の最先端の技術を駆使したものだった。その後拡幅する際に、取り壊しの話も持ち上がったそうだが、旧橋を生かして現在の形に残った。ただ、両側を鉄橋に挟まれるようになったため、この橋は横から見たのでは絵にならない。
かつて日光参りをする人々や、奥州関東60余藩の参勤交代の行列がこの橋を渡った。芭蕉が奥州へ旅立った際は、この橋を渡ることはなく、
深川から船で大川を遡り、橋北詰の船着場から千住宿に上ったと、奥の細道にもある。
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