学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その七十


 学海先生は墨堤に居を構えたことで一人の友人を新たに得た。成島柳北である。柳北のことを先生は、郵便報知新聞の先輩栗本鋤雲からしばしば噂話を聞いていた。共に幕臣として幕末に活躍し、維新政府におもねらず、フランスにも旅行したことなど、柳北と鋤雲には共通するところが多かった。年は鋤雲のほうが十五歳も上だったが、鋤雲はこの年下の才子を非常に高く評価していた。しかし学海先生にとって成島柳北といえば、「柳橋新誌」の作者柳北居士として、つとに畏敬すべき存在だった。その柳北が墨堤に定めた住まいの近くに住んでいると知って、先生は早速厚誼を求めたのである。
 成島柳北は維新後しばらく隠居同様の生活をしていたが、明治五年から翌年にかけて、東本願寺の法主に随行してフランス、イタリア、イギリス、アメリカを漫遊した。帰国後「朝野新聞」の局長として迎えられ、華々しい言論活動を開始した。この朝野新聞こそは日本の批判的なジャーナリズムの先駆けとなったものである。成島柳北はそのチャンピオン的な存在となった。学海先生が柳北と出会ったのは、柳北のそうしたジャーナリズトとしての活動が絶頂を迎えんとする頃だった。
 学海先生が柳北を訪ねたのは郵便報知新聞を退職して間もない頃のことで、墨堤に移り住んだ直後のことだった。そんな先生の来訪を柳北は丁重に迎えた。
「それがしは依田百川と申すものでござる。貴殿のことはかねがね畏敬いたしておりました。それがしこの近所に移居してまいりましたので、今後ご厚誼を賜りたいと存じ、見参つかまつりました」
「それはご丁寧に。僕が成島柳北でござる」
「貴殿のことは栗本鋤雲殿からお聞きしました。鋤雲殿は郵便報知新聞でそれがしの先輩でござった」
「するとあなたも新聞記者というわけですか?」
「まあ、出来こそないの記者ではありましたが、半年ばかり新聞に雑文を書き散らしておりました」
「して今は?」
「郵便報知をやめて浪人の身です」
「ほお、またなぜ新聞をやめられたのですか?」
「郵便報知は専ら洋説を振り回すようになりまして、それがしの如き漢学者は出る幕がなくなったというわけです」
「ほお、漢学ですか? 漢学はどなたに師事しましたか?」
「藤森天山翁です」
「そうですか。天山翁と言えば、たしか尊王攘夷論とか海防論を唱えた方でしたな?」
「よくご存じで」
「そんなに詳しくはありませんが、お名前と主張のあらましは存じております」
 こういうわけで学海先生と柳北居士とは出会いがしらから互いに好い印象をもったようである。というのもこの二人は以後頻繁に往来し、次第に友情を深めていったからである。年齢は柳北のほうが学海先生より三歳下であったが、殆ど同世代のものと言ってよかった。
 学海先生が柳北居士と会った頃は日本のジャーナリズムにとっての黎明期といってよい時期だったが、その黎明期の日本のジャーナリズムに早速暗雲が迫って来た。明治八年の六月に讒謗律と新聞紙条例が制定されて、反政府的な新聞に弾圧の手が伸びて来たのである。
 讒謗律とは政府の役人を誹謗中傷する者を厳罰に処することで、反政府的な言論を弾圧することを目的としていた。また新聞紙条例は新聞が反政府的な主張を乗せることを厳しく禁止したものだった。これらの発案者は大久保利光である。世間は大久保がこれらを通じて政敵を排除しようとしていると解釈した。柳北居士もそういう解釈に立って、この新しい法律を手厳しく批判した。彼はそのことで、投獄されることになるだろう。
 それはしばらく後のことだが、この法律が発布されて間もなく、柳北居士は「朝野新聞」六月三十日の社説に次のように書いて、やんわりと政府を批判した。
「我輩今条例を捧げて薰誦する再三なれど、天賦魯鈍なる故にや、未だ全く其意を了解し能はざる所あり。然れども務めて其律を犯さざらんことを慮り、今日より寝食を廃し頭脳を練り去って百考すべし」
 柳北居士がかくも及び腰になっているのは、とりあえず政府の出方を見守ろうとする意図に発しているのだと思う。
 柳北居士は七月三十一日に在京の諸名士を井生村荘に招いて宴会を催した。学海先生も招かれて出席した。会場には各県の県令など政府の役人も多く含まれていた。柳北居士は客を前に演説し、我が国の発展には健全なジャーナリズムの存在が欠かせぬのであり、ジャーナリズムを抑圧せんとする政府は、やがて国民の支持を失うであろうと訴えた。しかし柳北の主張に心から同意するものはあまりいそうにも見えなかった。
 政府はやがて本性を現した。七月二十日の曙新聞に「新聞条例を論ず」という投書が載ったことについて、それが新聞紙条例に違反するとして、編集長の末広鉄腸が東京裁判所に呼び出され、自宅禁固二か月、罰金二十円の刑に処せられたのである。また政府寄りの言論を展開していた東京日日新聞の福地源一郎までが呼び出しを受けた。
 この事態に面した柳北居士は俄然政府批判を展開するようになった。柳北の政府批判は特有の諧謔を込めたもので、読むものをして抱腹せしむるものがあった。たとえば次の如き一文がそうである。
「我輩は、党論正義以て人を悚動し、世を裨補する者陸続輩出するの兆を見れば、国家と人民との為に賀せざるを得ず。又法吏の之を糾弾する有るに因て其国家人民の為に職を尽し怠らざるを見れば、是れ亦国家人民の為に賀せざるを得ず。何となれば彼れも義務此れも義務、両ながら義務を尽せる者と我輩は思想すればなり」
 八月十七日にはかの有名な「辟易賦」を朝野新聞に載せて讒謗率を皮肉った。
「投書頻りに来って編集終らず。紙を展べ筆を握って讒謗の律を調べ条例の文を誦す。少焉あって汗両腋の下より出でて横腹の辺に点滴す。心配胸に横はり困苦肝に命ず。一身の置き所を失ひ万事の茫然たるを覚ゆ。慄々乎として邪を受け風を引き、其の寝た所を起こさるるが如し」
 これがもとで柳北居士は警視庁に呼び出され、また鍛冶橋の東京裁判所で尋問を受けたうえで、自宅禁固五日の刑に処せられた。
 自宅禁固中の柳北居士を学海先生は早速見舞った。自宅禁固とはいっても、訪問客との会話くらいは大目に見られていたのである。
「このたびはとんだ目にあいましたな」
「いやあ、これくらいのことは珍しくもない。西洋の文明国でも、政府を攻撃する新聞を取り締まることはあります。ましてや未だ野蛮国の我が国においてをや、であります。しかも僕の場合は自宅禁固で、こうしてあなたとお話もできる。たいした抑圧ではありませんよ」
「それがしの友人西村茂樹氏も、この条例には気を使っております。西村氏は福沢氏らと共に明六雑誌を発行しておりますが、それを廃刊にしようかという議論があるようです。条例は官吏が新聞紙に説を乗せるのを禁止していますから、西村氏のような官吏はもはや公然と新聞での言動をすることができないと申しておりました」
「福沢と言えば、僕は面識がないのですが、なかなか硬骨漢のようですな。このたび末広鉄腸が弾圧された際には、ビール数ダースを贈って、その意気を褒めたというじゃありませんか」
 柳北居士は福沢の明六雑誌廃刊の方針に共鳴する説を九月八日の朝野新聞に載せた。曰く、
「宜しく福沢先生の明六雑誌廃止の議論に従ひ、当分筆硯を焚て著述を止め、変じて流行の代言人とならん歟。将た高利貸とならん歟」
 政府の新聞弾圧に対してパンチの利いた批判を繰り出す柳北居士の意気を感じ取るべきであろう。柳北居士はその後末広鉄腸を朝野新聞に迎え、ともに政府批判の論調を強めていくのである。
 この年明治八年の暮には、学海先生にとってもっとも悲しいことが起った。ご母堂が死んだのである。
 あっけない死にざまだった。十二月二十九日に赤坂の仮皇居に参上した帰り、人力車で三囲神社のあたりを過ぎた時に、細君がこちらに向かってやってきて、ご母堂の危篤を告げた。驚いた先生はそのまま人力車を深川方面へ巡らせ、ご母堂の住んでいる兄の家に向かった。ご母堂はまだ意識があって息子の姿を認めたが、やがて深い昏睡状態に陥り、翌々日の大晦日の夜に息を引き取ったのであった。
 その折の胸ふたがる気持ちを先生は次のように表現した。
「夜半過ぐる頃に至りて、なやませ給ふ事もなく、御息かすかになりて、終に空しくならせ給ひぬ。みなみなあとばかり、ものも覚へず、兄上も某も人目を恥る事も打忘れて、声うちあげて泣悲しみたり・・・さしも日頃すこやかにおはせし御身の、俄にかかる御事あらんは、かけても思はざりつるに、ただ夢の心地のみして、今もなほ世にいます心地するかし」
 ご母堂の遺体は年が明けて一月三日に浅草の金蔵寺に埋葬した。その棺には「依田貞祖妣斎藤孺人柩」の十一字を記した。この時代には、妻は夫の姓ではなく、実家の姓を名乗っていたのである。
 ご母堂を葬った学海先生は、日記に次のように書いた。
「法事終り、御墳穴に収奉る。昨年の十二月、家人とともに先君の御墓にまふで奉りしとき、いかで、今日母上をこの地に収め奉らんと思ふべき。電光石火の世こそ墓なけれ」
 学海先生がご母堂を急に失ったことにいかにうろたえたか、よくわかる一文である。




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