学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その六十八


 学海先生は高まりつつある不平士族の動きには批判的であったし、また板垣等の自由民権運動にもあまり理解を示さなかったようである。その当時の先生の日記には、そうした政治的な動きに触れた記事はあまり見られず、ましてやそうした動きに対して先生自身の考えを述べたものは皆無と言ってよい。先生が主に記しているのは会議所を舞台とした先生自身の活躍ぶりである。
 会議所がその最初の仕事として養育院を設立したことは既に触れたとおりである。続いて会議所が手がけたのは埋葬地、つまり墓地の整備と経営であった。これらの仕事を会議所は東京府知事大久保一翁から依頼された。
 大久保知事は会議所に対して、谷中、染井、雑司ヶ谷、青山などに埋葬地を指定し、そこを墓地として造成・整備することを要請してきた。谷中は天応寺の境域、青山は美濃郡上藩主青山家の下屋敷だったところだ。この他小塚原の処刑場だったところも示されたが、これは湿地でもあり、また既に罪人の死体が多く埋まっていることもあって、墓地としては適さないと学海先生は判断した。罪人の死体が埋まっているところに、家族のために墓を作りたいと思う人はいないだろうと思われたからである。
 会議所が墓地の造成にとりかかると、都内の寺院の僧侶たちがこれに反対する運動を始めた。都内における死者の埋葬は長らく寺院がこれにあたり、今では寺院の経営を支える事業となっている。そこに官が介入してくるのは民業を圧迫するものだというのである。
 学海先生はたびたび東京府の寺社課に足を運び僧侶の代表と面会したが、会議所としては東京府の依頼を受けて埋葬地を造成・整備するだけのことであり、自ら主体的にその計画を進める立場ではないから、文句があるなら東京府に言ってもらいたいと答えるのがせいぜいだった。
 こんなことに影響されたか、学海先生は面白い行動に出た。会議所の議員を広く公募して選ぶべしと東京府に意見具申したのである。先生がなぜそのような意見具申をしたのか、その動機はあまりよくわからない。先生が自由民権の理に通じていたとは思われぬから、おそらく西村茂樹あたりから吹き込まれた民権論を、会議所の運営に適用したのだろうと思われる。西村はこの年明治七年の三月に福沢諭吉らと明六雑誌を刊行し、啓蒙的な主張を展開していた。学海先生はその主張に感化されたようである。いずれにして先生の主張は付焼刃的だとの印象を免れない。
 ともあれ学海先生の主張には知事の大久保も驚いた。会議所というのは、徳川時代からの町会所が前身で、町会所の持っていた資産を有効に運営するために作られた組織だ。今で言えば財団法人のようなもので、利害関係者は自ずから限定されている。したがってその運営委員も狭い利害関係者から選ぶのが自然であって、これを公募して選ぶなどは思いも寄らぬ事だ。その思いも寄らぬ事を依田百川なる男はまじめ顔で提案してきた。この男は一体何を考えているのか。そう大久保は思ったに違いないのだ。
 学海先生がこんなことを考えたのは他でもない。先生は埋葬地の一件もあって、会議所が世間の動きを無視して事業を進めるとなにかと波風が立つ、そうならないようにするためには世間の動きに敏感でなければならないが、そのために最も手っ取り早い方法は議員を広く公募して選ぶことだ。そうすれば世間の色々な考え方が会議所の運営に反映され、その結果会議所の運営がスムーズに行われるのではないか。そう思ったからであった。だがこの考え方はいかにも飛躍しすぎというものだ。
 第一、先生は三井・小野の代人としての資格で会議所の運営にかかわっているのであるから、三井・小野の利益のために行動すればよい。それをあたかも会議所を代表するような気分になって、会議所全般の運営にあれこれ口を出すのは越権行為だと思われても仕方がない。
 その三井・小野であるが、この二つは徳川時代からの大富豪であり、維新以後もなにかと政府に協力してきたのであるが、三井のほうが金融業者として順調に発展する勢いだったのに対して、小野の方は経営が傾きつつあった。三井が時の政権と密着して抜け目なく政商としての道を歩んだのに対して、小野のほうは旧態依然たる経営にとどまったことがその理由だと思われる。実際小野はこの年明治七年のうちに事実上倒産の憂き目にあっている。 
 ともあれ学海先生は三井・小野の代人として会議所の運営に力を傾けていたのだったが、十月の十一日に西村勝三が訪ねて来て、思いがけないことを切り出された。三井の番頭某が東京府知事大久保一翁に呼び出されて、依田百川をクビにしろと言ってきたというのだ。その理由は先生が他の議員との間で折り合いが悪いというのだが、先生にはもとよりそんな自覚はない。これは大久保が自分を嫌うあまりに三井に圧力をかけて会議所から追い出そうとするのだろう。そう先生は感じた。
 その鬱憤を先生は次のように日記にぶちまけている。
「知事、偏狭固陋、直言を諱み、民権を抑圧せんとの私意にして、余が一力に、真の会議を起こして民権を振興せんとするを忌み害するよりして、終に故なく三井氏に嘱して余を退けしむるなる可し」
 これを読むと先生が会議所を民権振興の場と見ていることがよく伝わってくる。大久保一翁とは全く違う見方をしているわけだ。これでは両者が折れ合う余地はないと言ってよい。 
 先生はもとより自分の地位に恋々とする人ではない。潔くやめてやるつもりになったが、ただ大人しく引き下がるのは忌々しい。そこでやめるについての条件を出した。当初の契約では二年間ということになっていたのが、その半ばの一年で自分の都合で解雇するわけだから、残りの期間の報酬を支払えという要求を出した。これに対して三井のほうでは、何もしないで全額寄こせとは片腹痛い、その半分の六ヶ月分にしろと行ってきた。結局双方が折れ合って八ヶ月分の報酬を支払う代わりに辞職するということにまとまった。
 こんな具合で学海先生はわずか一年でまた浪人の身に舞い戻ってしまった。そんな先生の境遇を親友の川田甕江が心配して、自分の勤めている修史局に紹介してやろうと言ってくれた。その話と並行して、郵便報知新聞社長小西義敬から誘いがあった。小西は先生が昔から知っている人である。その小西が主宰している郵便報知新聞というのは、駅逓頭前島密の協力を得て創刊した新聞で、前島が全国に張り巡らした通信網を活用し、各地の最新ニューズを迅速に報道するというのがうたい文句だった。
 新聞社は日本橋薬研堀にあって、西洋から輸入した活版印刷機を用いて一日数万枚の紙をすり出していた。その様を見て先生は文明の利器のすさまじさに恐れ入った。この機械を用いて毎日何万枚もの新聞が日本中に配布される。自分の書いた文章もその紙に印刷されて、数えられぬほど多くの人に読まれるのだと思うと、学海先生は心が浮きあがるのを感じるのだった。先生には先生なりの山師気分があって、自分の文章が世間を騒がすことにまんざらでもない気分を覚えるのである。
 同僚には旧幕臣で軽快な文章で文明批評を行っていた栗本鋤雲とか、漢学者の岡敬孝といった人がいた。先生はそれらの人々に交じって文章を執筆したが、それらの多くは政治的なイッシューにはあまり触れず、世間の噂話のようなものを漢文調の筆致で書いたものが多かった。学海先生も又それにならい、演劇とか文学についてのあたりさわりのない文章ばかりを書いては新聞に載せたのである。
 そのうち社長の小西が、古沢滋を新聞の主筆に迎えたいがどうかと先生に相談してきた。郵便報知新聞は、発足当時は政治のことにも積極的で、矢野龍渓ら民権家が寄稿したりもしていたが、最近はすっかりおとなしくなって、あたりさわりのない記事が紙面を埋めるようになり、マンネリズムに陥っていた。小西はそれに危機感を抱き、立て直しを図りたいと考えたようであった。
 古沢のことなら先生もよく知っていた。土佐の出身で民権の振興を主張している人だ。自分も民権の振興を主張し、それがために東京府知事と対立し解雇された。だから古沢とは民権を介した同志のような気になれる。先生は小西の提案に大いに賛成した。
 その結果郵便報知新聞の論調も少しは変わったようである。政治向けの話が紙面を飾ることが多くなった。
 なお、この年明治七年六月、先生は日本橋通りに面した家から通りの奥に引っ込んだ家に転居した。通りに面した家では塵土のうちに住んでいるような気がして落ち着くことができなかったのだ。そこで日本橋亀島町に適当な家を見つけ、それを四百円で買い取った。亀島町は今でいう茅場町のあたりである。
 この亀島町の家で、九月五日に細君が五人目の子どもを産んだ。男の子だった。その子を先生は古狭美と名付けた。長男美狭古を逆にしたものである。先生がなぜ二人目の男の子にこんな名をつけたのか、その真意はわからない。兄の名を逆にした名ではさぞかし影が薄いだろうと思うのは小生のみではあるまい。果たしてこの子は薄幸に終わった。




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