秀吉の小田原攻めが行われた天正18年(1590)、家康は秀吉によって、それまでにいた駿遠地方から関東へと知行地替えを命じられました。江戸を中心にした関東平野は広大で、人の手もあまり入っていない土地でしたが、家康は江戸に入るとすぐ、都市づくりに取り掛かったといいます。

それまで関東によっていた勢力は、後北條氏を始めとして千葉の一族など、秀吉に従わぬ者が一掃されましたので、家康は安心して関東の経営に専念できたのです。

家康が行った土地経営の柱は、江戸城を中心にした城下町の形成と、第一章で紹介した治水事業です。あわせて、海岸沿いの低湿地を埋め立て、今日につながる都市の骨格を作り上げました。

家康は、隅田川や多摩川など江戸の市街の境をなす河川については、防衛上の観点から橋を架けませんでした。ただし、千住にかかる橋だけは別格で、入府後四年目にかけています。いまに伝わる千住大橋です。この橋は、江戸300年を通じて一度も落橋することなく、奥州に開いた江戸の門として重要な役を果たし続けました。

隅田川が荒川の下流となったのは1629年以降のことです。当時の川幅は現在より大分広かったようです。元禄以降庶民のゆとりができてくると、人々はこの川を大川と呼び、猪牙船に乗って上下するのを楽しみにしました。

千住大橋を始として、江戸時代を通じて5つの橋が架けられました。橋のないところには渡し場が設けられ、人々は小船に乗って川を渡りました。

千住大橋以降最初に架けられたのは両国橋です。明暦の大火(1657)によって江戸の市街は大半が焼失し、江戸城の天守閣も焼け落ちてしまいました。これを教訓に、幕府は防火を視野に入れた都市の作り直しを始めました。広小路や日除け地の整備がその中心で、都心に広い土地を生み出すため、寺社や大名の屋敷地を郊外に移転させたりしています。また、避難の道を確保するために隅田川に橋を架けることとしました。それが両国橋です。

両国橋ができたことによって、本所、深川など左岸の地域が都心と結ばれ、この地域が発展するようになります。また、本所には旗本の屋敷が、深川には寺社が大規模に移転してきました。その深川の一角、小名木川が隅田川に注ぐあたりに、あの芭蕉翁が草庵を結び、そこから奥の細道を行脚する旅に立ったのでした。今でもそのあたりに、芭蕉の草庵を結んでいた地や、芭蕉ゆかりの展望台などが残っていますから、一度出かけてみられることをお勧めします。

芭蕉の晩年には新大橋が架けられています。(1693)今の位置よりやや下流にあったようです。単に大橋と呼ばれた両国橋にたいして、新しくできた橋というので、新大橋と呼ばれたわけでしょう。

新大橋の5年後、元禄11年(1698)には永代橋が架けられました。元禄十四年の暮、討ち入りを果たした赤穂浪士は、できて間もなくのこの橋を渡って、品川の泉岳寺をめざし凱旋したのです。

永代橋は日本橋地区と深川八幡を結ぶ橋で、庶民の足にとって大事な役を果たしました。しかし、この橋にはいたましい落橋の歴史があります。

文化文政時代は江戸の庶民文化が花開いた時期として知られていますが、その頃の人気行事に深川八幡の祭りがありました。日本橋の町人地区に住む人たちは、この橋を渡って深川の祭り見物に繰り出したといいます。文化4年(1807)、祭りの見物に出かける大勢の市民がこの橋を渡っている最中、人の重みに耐えかねて橋が落ち、大勢の人が溺れ死んだという事故がおきたのです。英国の童謡に『ロンドン橋が落ちたとさ」というのがありますが、江戸の市民は永代橋が落ちて、さぞ驚いたに違いありません。

徳川時代最後の橋は吾妻橋です。これは町人の普請によって、1774年に架けられ、当初は大川橋と呼ばれていました。この橋ができたことで、向島にある墨堤の桜が庶民に一層身近になりました。町人が作ったからというわけでもないでしょうが、洪水のために流されて下流に被害をもたらしたこともあったようです。






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