今日、人々は隅田川の堤のうちなるテラスに下りて、川辺近くを散策できるようになっています。川を流れる水は決してきれいとは申しませんが、水面をわたる風に不快な匂いなどを感ずることはあまりありません。また、テラスから見上げる橋はなかなか風情に富んだ表情をしています。

実は、隅田川が人の近づくのもはばかられる、いわば死の川だったことは、そう
遠い昔のことではなかったのです。

戦後我が国の経済発展に伴い、隅田川流域は中小工場が集積し、そこから流される廃液などによって河水は著しく汚濁されました。また、昭和30年代半ば以降、高潮による洪水被害から町を守るため、墨田川の両側は、かみそり堤防と呼ばれる切り立った堤防によってさえぎられ、人々の目には見えない川となって行きました。とにかく悪臭で近づきがたい川でしたので、丁度よい目隠しになったという側面もありました。これでは、隅田川に架かっている個性豊かな橋の数々も、ただ人や車を渡すだけの存在となり、ゆっくりと景観を楽しむ対象とはなりにくくなったのです。

一方、東京湾ではあちこちで埋め立てが進み、自然の海岸がなくなってきたばかりか、何もない土地がつながる荒廃した風景の場となり、人々は海岸に立って、海を眺める楽しみも奪われていきました。昭和30年代の始め頃までは、月島ではぜ釣りをする人もいたものですが、釣りはおろか、海を身近に見ることがなくなったのです。

あの時期、東京に住む人々は、水のもたらす潤いから遠ざかった生活を余儀なくされていたわけです。海と川という二つの水資源が、この国特有の感性のありかたに深い関係をもっているにかかわらず、このような状態は非常に不幸なことだったといえます。

昭和40年代後半から50年代を通じて公害対策が進み、水質の浄化が図られてくると、隅田川の水も少しずつきれいになっていきます。きれいになれば、川辺に下りて身近に水に触れたいと思うのは自然の勢いでしょう。隅田川にも親水空間の回復をめざす動きがやがて現れてきました。

一つの転回点になったのが、人道橋桜橋の建設です。昭和60年に、言問橋と白鬚橋との間に人専用の橋として、桜橋が架けられたのですが、その際、橋の両側の堤防を切り崩し、川へ下りるためのテラスが作られました。人々は、長い空白の時期を経て、再び隅田の川岸に立つことができるようになったのです。

これが引き金になって、川岸にテラスの整備が進みます。また従来のかみそり堤防も、緩傾斜型の堤防や、スーパー堤防と呼ばれるおおらかな堤に変わっていきました。河口近くの聖路加病院前にある堤などは、ゆるい傾斜の階段を伝って、自然に川辺に下りられる工夫がなされています。

臨海部の埋立地も、平成に入って整備が進み、レインボーブリッジやお台場が登場して人々は海岸も身近に感じることができるようになりました。

日本人本来の、水との共存が、東京の川や海でも、すこしずつ実現してきているのです。

隅田川といえば汚い川というイメージが強く、ほとんど足を向けることもなかった散人が、数年前、橋をスケッチするため始めて隅田川にやってきたとき、予想に反して直接テラスに下りることができるのを知って、大いに喜んだことがあるそうです。下から見上げる橋にはそれなりの迫力があって、その日は納得できる絵を描くことができたといいます。

このホームページに公開する散人の橋の絵は、そうした喜びから生まれてきたものだそうです。






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