江戸東京博物館編
「永井荷風と東京」から引用

100年前の東京・墨東地域




両国の江戸東京博物館に行くと、1階ロビーの床に100年前の東京と題した巨大な地図がプリントされています。訪れたことのある人は覚えておいでだろうと思います。何せ大きなものですので、デジカメで全容を収めるわけにもいかず、また適当なコピーも手に入らないので、ここでは、代替物として、博物館が以前荷風特集の際発行した本の中から、ほぼ同じ様子を表した地図を添付してみました。これをみながら100年前の東京を想起し、当時の東京墨東地区のありさまを見ていくことにしましょう。

今から100年前といえば1905年ですから、明治38年、日露戦争が勝利のうちに終わった年です。東京の街はこの時期を境に急速に変化していきますから、この地図に描かれているのは転換期における東京の姿だといえます。

隅田川の河口には埋立で出現した直後の月島が描かれており、海岸線は越中島からほぼまっすぐ東の方向に延びています。徳川時代すでに越中島や砂村新田は造成されていましたから、この時期の東京は、月島を除いては、江戸中期ころの姿と余り変わっていないことがわかります。

面白いことに、この地図には荒川放水路が描かれていました。この放水路は、明治43年の大洪水をきっかけに開削が始まり、完成したのは大正年間のことですから、この地図は実際には100年前ではなく、もっと後の時代の東京を描いたものだとわかります。しかし、海岸線をはじめ、この間における東京の姿そのものには余り変化がなかったものと考えられます。

地図を詳細に見てみましょう。まず、強い印象を受けるのは、遊水池が極めて多いということです。猿江や亀戸より南側は、いたるところに大きな遊水池が存在しています。それらのほとんどには養魚池という表示がなされており、この地域が江戸以来漁業の盛んなところであったことうかがわせます。

墨東地域はもともと低湿地や干潟であったところを埋め立てて造成されたものです。造成の過程でこのような遊水池が多数生み出されたのでしょう。砂村の南部などは、陸に池があるというより、広大な水面のところどころを土堤が走っているといった具合です。

これらの池がことごとく埋め立てられ、今日見るような江東地域の姿に変化するのは、昭和に入ってからのことだったのでしょう。少なくとも明治の時代においては、東京の都市構造は江戸中期に確立された姿をそのまま引き継いでいたことがわかります。






   




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