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永井荷風と深川の橋:東京の川の歴史



永井荷風作「仙台堀川筋橋梁図」断腸亭日乗より

「今試みに東京の市街と水との審美的関係を考ふるに、水は江戸時代より継続して今日においても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となってゐる。陸路運輸の便を欠いてゐた江戸時代にあっては、天然河流たる隅田川と此れに通ずる幾筋の運河とは、いふまでもなく江戸商業の生命であったが、其れとともに都会の住民に対しては春秋河岸の娯楽を与へ、時に不朽の詩歌絵画をつくらしめた。」

これは荷風日和下駄中「水」の一節です。荷風は東京市中の風景の中でも水のある景色を愛でました。荷風の生涯を通じての趣向に下町趣味があげられますが、東京の下町は江戸時代の昔から運河が縦横に通ずる町であり、その風景にはおのずから水が伴っていました。

そんな水のある風景の中で、若年のころの荷風が愛したのは築地あたりの掘割の景色だったと思われますが、壮年を過ぎたころよりは、隅田川を越えて東のほうへと関心が向かいます。

昭和三年に清洲橋がかけられると、そのころ中州の病院に通っていた荷風は、治療の帰りにこの橋を渡り、深川の運河沿いをよく散歩するようになります。

そのころの深川は、震災で大被害にあった後遺症で、町はまだ復興しきっておらず、雑然とした様を呈していたことと思われますが、そんな中でも、荷風は運河沿いの景色にいくばくかの慰謝を得ることができたのでしょう、実に頻繁にこの地を訪れては、運河沿いを散策し、運河に架かる橋々を数え見たりして、並々ならぬ関心を払っています。

荷風はそうした折々のことを日記のなかにこと細かく記していました。断腸亭日乗の中からそんな部分を取り出してみましょう。

「(昭和七年)四月四日。快晴。桜はまだ花開かざれど柿楓の芽萌出でたり。連翹木蘭の花まさに盛なり。午前読書。哺時中州病院に往き本年正月以後の薬代を払ふ。例のごとく清洲橋を渡り仙台堀にかかりたる橋を数へ見むとて、初めは堀の北側を歩み豊住橋に至り、それより橋を渡りて堀の南岸に沿ひもと来りし方へと戻り行きぬ。・・・仙台堀と横川との二水十次をなす所崎川橋大栄橋かかりたり。ここより少しく東の方に石住橋と千田橋の二新橋あり。その南岸に大なる枯木聳えたちたり。公孫樹か松かいづれとも推察しがたし。亥年の地震に焼けたるなるべし。」

荷風はこの記事に添えて仙台堀とそこにかかる橋を一幅の地図に描いています。余程これらの橋に感銘をうけたのでしょうか。

この数日後には、当時小名木川の支流としてあった六間堀を訪ね、やはりそこに架かる橋々を数え見ては、その様を述べた日記の記事とそれに添えられた地図を残しています。

「四月十二日。今日は深川六間堀の橋々を数へ見むと思ひて、まづ清州橋を渡り、万年橋の北詰より掘割に沿ひ、細川橋、猿子橋、中ノ橋、六間堀橋、北ノ橋の橋際を過ぐ。掘割の本流はまっすぐに北の方に流れ行き潮崎橋、山城橋、松井橋の下を経て本所竪川に入る。茲に千歳橋かかりたり。又六間堀の支流は北ノ橋の先より東の方に流れ、更に南方に迂回して再び小名木川に通ずるなり。」

荷風は橋の構造については詳しく触れておりませんが、仙台掘のものも含め、これらの橋の多くは震災後架け替えられた鉄橋のトラス橋だったと思われます。万年橋を初め本所深川の運河にかかる橋は、震災後架け替えられたものが多かったのです。

こうしてみると、荷風の深川の橋に対する思い入れは、橋そのものの美しさというより、なにか特別な感情移入にもとづくものだったといえるような側面もあります。そんな勘繰りを傍証するような記事が同じ日の日記に出てきます。

「深川高橋のあたりは亡友のことのみならず、吾身にとりても亦忘れがたき処なり。二十一二歳のころ、落語家朝寝坊夢楽の弟子となり夢三郎といひて、われは常磐町なる寄席常盤亭に通ひしことあり。下座の三味線弾く女と毎夜連れ立ちて六間堀の通を歩み、両国橋を渡り、和泉橋辺にて女は下谷佐竹ゲ原の家に帰り、われはそれより一人になりて夜道をはるばる一番町の家に帰りしなり。或夜雪の降り出でし帰道・・・」

荷風の亡友井上亜々は深川六間堀に住んでいました。荷風はこの若くして亡くなった親友の思い出を深川の運河に結び付けていたのかもしれません。亜々は江戸趣味を身をもって実践した人物で、荷風は江戸趣味の面では彼から大きな影響を受けていると思われます。江戸の情緒を求めそれにひたることは、荷風の生涯を通じての性癖のようなものでしたが、深川はまだ西洋文明が浸透しきっていない、江戸の情緒を色濃く残す地として、荷風にはとらえられるものだったのでしょう。

この記事などは、為永春水の梅暦を意識したものだと思われます。春水の江戸は向島が舞台でしたが、深川も同じく水の町としてそれに通ずるものを持っていたのでしょう。

しかし、意識の中の思い入れとは別に、震災後の深川は急速に昔の風情を失い、小工場の林立する殺風景な町へと変化しつつありました。荷風も、深川の運河を情緒豊かに描き出すだけにとどまることを得ないで、やがて殺風景な現実を、投げやりな言葉で受け入れるようになります。 

昭和十年に書かれた「深川の散歩」という随筆は、上記の経験をもとにして作られたものですが、そこでの記述は日記の中で親愛の感情を以て深川の橋を語ったときとは異なり、いわば苦渋に満ちた告白となっています。

「今日の深川は西は大川の岸から、東は砂町の境に至るまで、一木一草もない。焼け跡の空地に生えた雑草をのぞけば、目に映ずる青いものはひとつもない。震災後に開かれた一直線の広い道路と、昔から流れている幾筋の運河とが、際限なき焦土の上に建てられた臨時の建築物と仮小屋とのごみごみした間を縦横に貫き橋ってゐる処が。即ち深川だといへば、それで事は過ぎてしまふのである。(深川の散歩)」

これ以降、荷風の関心は深川を越えて砂町とその先に流れる荒川方水路へと移っていきます。

一方深川の町は震災の被害から十分立ち直りきれないうちに大戦を迎え、空襲による被害によって町は再び焦土と化しました。戦後の焼野原に残されたものは縦横に流れる運河網とそれらに架かる鉄橋群のみだったと創造されます。国敗れて山河ありとは杜甫慷慨の詩ですが、焦土となった深川を象徴した風景は、これらトラス型の鉄橋群だったのです。

無論、今日は深川も見事に復興し、町は落ち着いたたたずまいを見せています。外観こそ特徴にかけた単調な風景が広がっていますが、そこに住む人々の心意気によって、江戸下町以来の人情の細やかさを感じさせる町となっています。




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