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二つの同時代史:大岡昇平と埴谷雄高の対話


「二つの同時代史」は、大岡昇平と埴谷雄高のかなり長い対談をおさめたものだ。彼らがこの対談をしたとき、二人とも七十代の半ばに差し掛かっていた。二人とも1909年に生まれ、この対談の数年後に相ついで死んでいるから、これはそれぞれの白鳥の歌をかわしあったものと言ってよい。二人とも言いたいことを言って、死んでいったのだから、さぞせいせいしただろうと思う。

二人が語り合ったのは、日本の文壇にかかわることが主なものだが、そのほかに自分たちが生きて来た日本の近代というものにも、鋭い批判を向けている。そこは、彼らの政治意識が旺盛だったことのあらわれで、その政治意識を、埴谷の場合には左翼の片割れとして、監獄にぶち込まれながら養ったものと思われるし、大岡の場合には、自分自身が徴兵されて米軍の捕虜になったことを通じて養ったものと思われる。大岡は少年時に小林秀雄の薫陶を受けたこともあって、本来は保守的な体質の人間なはずだが、それが年をとるにつれて左のほうへと傾いていったように見られた。それを埴谷は、時代全体が右に傾いたので、あんたは相対的に左に位置付けられただけのことだと言っているが、たしかに戦後日本には、大岡の言うように、またぞろ戦争を始めかねないムードの高まった時期もあった。大岡が憎悪したのは、無責任な政治家たちが、国民を再び無意味な戦争に駆り立てることだったようで、そうした大岡の危惧が、この対話からはリアルに伝わって来る。

この対話の面白いところは、ふたりとも年のせいもあるのだろう、自分自身のことも包み隠さず素直に話していることだ。その中で、大岡がまだ若い頃に一人の女をめぐっての体験は特に面白い。この女は長谷川泰子という女優崩れで、けっこう美人だったらしいが、どうも男癖が悪いようで、小林秀雄の愛人でありながら中原中也とも懇ろになり、大岡にもちょっかいを出したらしい。大岡は「おれはなんにもないよ」と言ってとぼけているが、眉唾というべきだろう。大岡が京都の大学に入ったのは、女から逃げるためだったと言っているから。

大岡は、戦後にも一人の女を、小林秀雄や河上徹太郎と共有したらしいが、どういうわけか、そのことについては、この対談では触れていない。やはり師匠格の小林に対する遠慮が働いたのだろう。

大岡は論争好きなことで知られ、数多くの論争をしてきたが、この対談では、あまり立ち入ったことは言っていない。むしろ埴谷のほうが、文壇仲間に批判的なことを言っている。その二人とも、対談の相手にはリスペクトを払い、互いに褒めあっているのは面白い。大岡は埴谷の「死霊」を世紀の傑作のように言うし、埴谷は大岡の「野火」を戦後文学最大の収穫みたいな言い方をする。埴谷の言い方はともかく、大岡が「死霊」をどれほど真面目に読んでいるかは、疑問あらずともしないが。

これは広く知れ渡っていることだが、大岡はスタンダールを読んで自己形成をしたと、この対談でも繰り返し言っている。戦争の体験がなければ、大岡はスタンダリアンとして一生を終えたかもしれない。それが戦争に行って捕虜になったおかげで、小説を書くようになった。彼の小説は、自分自身のために書いたというところがあるようだ。書くことによってカタルシスを得たいと思ったのだろうが、戦争へのこだわりは一生抜けなかったようだ。

埴谷の左翼的な傾向は、子供の頃からあったらしい。埴谷は台湾で少年時代を送ったが、そこで日本人が支配者然として台湾人の上に君臨していた。それが埴谷には醜悪に映って、権力への懐疑的な姿勢を養ったということらしい。一方大岡にはそういう経験はない。父親は株屋で、いわゆるプチブルのはしくれであり、政治的にならずに生きることができた。そういうボンボン的な体質だったものが、戦争を通じて、社会の矛盾に気づかされたということらしい。とはいえ、二人とも気張った態度はとらない。斜に構えて人生を自分なりに楽しんでいる。金がなくても飲むくらいの器量を、二人とも持っていたようだ。


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