ヤマトタケルの物語は、記紀の説話中、独特の色合いを帯びている。それは基本的には、英雄の物語なのであるが、スサノオやカムヤマトイワレヒコのような万能の英雄としてではなく、悲劇的な英雄として、主人公を描いている。古事記には、ヤマトタケルが父景行天皇から不信の念を抱かれ、征西、東征と目覚しい勲功を立てながら、最後には父にまみえることを得ないままに、倒れるさまが描かれている。ある意味で、義経の悲劇に通ずるところがある。
この国には、義経に代表されるような悲劇の英雄を尊重する伝統があり、それが、おびただしい数の貴種流離譚を生み出す原動力ともなってきた。ヤマトタケルの物語は、それらにとっての、原型をなしたものともいえるのである。
古事記と日本書紀とでは、ヤマトタケルと景行天皇との関係に描写の違いが見られるが、ヤマトタケルが無念の死をとげることにおいては共通している。また、西征、東征における個々の逸話も、ほぼ同じ内容である。ここでは、それらの逸話を取り上げながら、ヤマトタケルの英雄性と悲劇性とについて、検証してみたい。
まず、ヤマトタケルの容貌については、記紀ともにたくましく荒々しい男子として描いている。古事記では、兄の手足をばらばらにして放り捨てたと書かれているし、書紀には一丈の巨体として描かれている。英雄として当然持つべき資質だったからであろう。
しかし、一方では、熊襲を倒すにあたって、乙女の姿に変装し、敵の目を欺いている。英雄が乙女になるということは、想像しがたいことである。ここに、ヤマトタケルの悲劇の英雄としての秘密が潜んでいるともいえる。
書紀では、父帝をして、ヤマトタケルを神の子といわしめているが、ただ単に、膂力に優れていたというにとどまらないものが、ヤマトタケルにはあった。それは、両性具有的なあいまいさであり、妻をしのんで嘆く場面に現れるような感受性である。
女装することのほかにも、ヤマトタケルには常に女性の影が付き従っている。焼津の野で火に囲まれたとき、草薙の剣で草を払い、それに迎え火をつけることによって窮地を脱するが、この剣は伊勢の倭姫によって与えられたものである。また、海が暴風によって荒れたときには、弟橘姫が人柱となって、海神の怒りを和らげ、ヤマトタケルを救った。
ヤマトタケルの悲劇性は、その死に凝縮されている。果てしなく続く東征のなかで、ヤマトタケルは次第に身体の不調に見舞われるようになり、ついに荒野に倒れる。
このときのヤマトタケルの様子を、日本書紀は次のとおり記している。
―臣命を天朝に受けて、遠く東夷を征つ、即ち神恩を被り、皇威に頼りて、叛く者罪に伏し、荒神自らに調(したが)ひぬ、是を以て甲を巻き矛を?(おさ)めて、愷悌(いくさとけて)還れり、冀(ねが)ひしく、曷(いづ)れの日、曷れの時に、天朝に復命(かへりごとまを)さむと、然るに天命忽に至りて、隙駟(ときのひかり)停め難し、是を以て独り荒野に臥して誰にも語ることなし、豈身の亡せむことを惜しまむや、唯不面を愁ふ、既にして能褒野(のほの)に崩れます
討ち死にではなく、病に倒れたことがポイントである。英雄は、敵の手にかかって死することはないが、病には倒されることもある。復命の使命と迫る天命との間で嘆くヤマトタケルの姿は、弟橘姫をしのび、三度嘆きつつ、「我妻はや」と叫んだ姿に重なる。
ヤマトタケルの骸は、白鳥に姿を変えて飛び去った。何故白鳥なのか、筆者にはよくわからないが、悲劇の余韻が伝わるような部分である。
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