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日本による台湾の領有:近現代の日中関係


日清戦争の結果、清国は日本に台湾の領有を認めた。日本としては初めて手にする植民地であり、帝国主義列強の一員になったあかしであった。一方清国すなわち中国としては、愛琿条約と北京条約によって、満州の北半分(ヤブロノイ・スタノボイ以南及びウスリー川以東)をロシアに略奪されて以来の領土の喪失だった。その後台湾は取り戻すことは出来たが、満州の北半分はロシアに領有されたままである。

台湾は伝統的に福建省に付属する島として扱われてきた。中央政府が直接統治することはなく、関心も薄かった。ところが19世紀後半になると、西洋など外国の影が台湾に差し込むようになる。1874年には日本軍が台湾原住民を攻撃する事態が起こり、1884年にはフランスからの攻撃が強く懸念されるようになった(清仏戦争)。そんなわけで、中央政府も台湾に重大な関心を抱くようになった。そういう状況を背景にして、1885年には省レベルに昇格された。初代巡撫には劉銘伝が任命され、防衛体制の強化やインフラの整備が行われた。

日本が台湾統治に乗り出した時、台湾の人口は約260万人で、そのうち八割は清の時代に福建省から移住してきた人々やその子孫だった。また客家と呼ばれる人々が15パーセントほどいた。客家とは広東省を中心に住んでいる人々で、中国本土では差別的待遇を受けていた。親日で知られる李登輝も客家の出身である。台湾原住民と呼ばれる人々は8万人前後だった。

日本政府は台湾統治の手始めとして、1895年4月に軍隊を台湾北部の基隆に上陸させた。そこから南部に向かって進み、全島を占領する計画であったが、まず島に駐留していた清国軍の抵抗にあった。だが数週間で台湾北部を制圧し、南部に向かった。その途中、客家などが組織したゲリラの抵抗にあった。そのため全島の掌握には5ヶ月以上を費やした。その間各地で日本軍とゲリラの戦いが繰り広げられたが、その際に日本軍が数千人の台湾人を殺害したことが国際的な批判を浴びた。

日本政府は台湾統治の機関として台湾総督府を置き、樺山資紀、桂太郎、乃木希典を相次いで総督に任命したが、はかばかしい成果をあげることはできなかった。そこで1898年に児玉源太郎を第四代総督に任命した。児玉は長州閥の軍人で、台湾総督を八年余りつとめ、目覚しい業績をあげた。まず、警察力を強化して、地元民の反抗分子を徹底的に弾圧した。それについては、彼の右腕として働いた後藤新平が大活躍した。後藤は警察力を動員して、反抗分子の徹底的殲滅をはかった結果、その後の大規模反乱の芽を摘み取った。かれは台湾の反抗分子を徹底的に殲滅したことを公然の場で自慢しており、数千人を殺した武勇伝を吹聴したりした。

後藤にはしかし、文官として台湾統治にめざましい業績をあげた側面もある。後藤は医師であり、内務省の医官として公衆衛生分野で活躍し、内務省衛生局長にまでなっていた。その後藤を児玉は、台湾総督府の民生局長として引き抜き、台湾統治の民生部門をまかせたのであった。

台湾における日本の植民地経営の基礎を築いたのは児玉と後藤のコンビといってよいが、かれらのやり方は、西洋諸国の植民地経営とは根本的に異なっており、日本的植民地経営といってよかった。西洋諸国では、支配者である本国人は、現地人との間に距離を儲け、決して同化することはなかったのだが、日本人は積極的に現地人社会に中に入り込み、現地人と同化的に共存するシステムを作り上げたのである。

もっとも同化とか共存といっても、日本人と現地人が平等に付き合ったというわけではない。日本人は支配者として、現地人よりも上位の立場にあった。その上位の日本人が、台湾人を使役するというのが基本的なパターンであるが、その場合の両者の関係は、あくまでも同じ平面でお互いに接触しあうというもので、西洋諸国の植民地のように、支配者が現地人とは隔離された別空間で暮らしていたわけではない。

日本人と現地人との同化は、教育政策によく現われた。日本人は、台湾に多くの学校を作ったが、そこに台湾人と日本人とを一緒にして学ばせた。教育現場ではもっぱら日本語が用いられた。そうしたやり方を通じて日本人は、台湾人に日本人としての意識を持たせようとしたのである。その手法の一つとして、日本風の神社を各地に建てたりもした。これは、西洋諸国の植民地政策とは根本的に異なるやり方だった。

それでも日本人と台湾人との間には、人種的な差別が公然となされていた。当時台湾には、沖縄から移住してきた人々もあったが、日本人はそうした人間たちも含めて、日本人は一流国民、沖縄人は二流国民、台湾現地人は三流国民として取り扱った。

台湾の経済振興という面では、新渡戸稲造が活躍した。新渡戸は札幌農学校出身の農業経済学者だったが、台湾の経済振興をめざす後藤から招聘された。新渡戸は台湾を、農業分野において日本を補完するものと位置づけ、台湾の農業振興に力を尽くした。またその農業分野でも、日本との競合を避けるという政策をとった。たとえば茶の栽培を中止させて砂糖の栽培を強化するといったことだ。その結果台湾は、有力な砂糖産地になった。

後藤はまた、台湾におけるアヘン吸引の撲滅にも力を入れた。後藤が赴任した頃、台湾のアヘン吸引人口は16万5千人といわれたが、短期間の間にほぼ一掃することができた。

こうした具合に、台湾を舞台とする日本の植民地経営は、後に朝鮮や満州における植民地経営のモデルになってゆくのである。



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