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加藤周一の日本古代文学論:日本文学史序説


加藤周一は、日本の古代文学を「記紀」と「万葉集」で代表させている。そのほか、万葉集より三十年前に成立した「懐風藻」があるが、これは支配層による漢詩の模倣であるとして、文学的な意義を認めていない。「記紀」は天皇制権力による支配の正統性を目的としたもので、文学作品ではないのだが、神話や歌謡などに文学的な要素が認められると考える。その記紀の文学上の特徴を加藤は、いつくかあげている。

まず、語り口の特徴が、本筋からの脱線が多く、部分的な挿話を全体の均衡から離れて詳しく語る傾向である。これは平安の女流文学から、中世のエッセー類をへて現代文学にいたるまでの日本文学の大きな特徴である。こうした傾向は、日本土着のものの考え方を反映したものであり、したがって強い影響力を持ち続けたというのが加藤の見立てである。その影響力が、近代の日本文学で、私小説を流行らせた。私小説もまた、部分的な挿話に徹底的にこだわるのだ。「けだし今日の日本の小説読者ならば、ほとんど私小説の遠い祖先が記・紀にありとの感さえも抱くであろう」と加藤は言っている。

つぎに記話に描かれた神々が、正義や、美や、真理や、運命といった絶対的な基準と無縁なことである。したがって宗教的な意味での絶対者が存在せず、絶対者の存在しないところでは英雄も存在しない。記紀が描く英雄らしき人物(たとえばヤマトタケル)は、絶対的な正義の体現者ではなく、人間的な弱さを体現している。

古事記のもっとも美しく感動的な部分は、ほとんどすべて恋の話である。カルノミコとカルノオホイラツメとの同母兄妹の恋に代表されるような悲恋物語がもっとも感動をそそる。そうした心中につながる恋の物語は、「古事記」から「曽根崎心中」まで一貫した日本の文学テーマだったと加藤はいう。

「万葉集」については人麻呂以下の代表的な歌人を中心にして論じている。まず緒論として、万葉集においても恋の歌が圧倒的に多いという。人麻呂においては、恋の歌は相聞歌という位置づけだが、挽歌さえも男女の相聞の歌としての色彩を持たされている。さように恋愛感情は日本人の基本的な感情だったのである。

万葉集は、前後のどの時代と比較しても女性の活躍ぶりがめだっている。その女性歌人のほとんどすべてが恋の感情を歌った。その恋の感情は、うわついた精神的なものではなく、肉感的なものである。恋をするとは、万葉時代の男女にとっては、寝ることなのである。

万葉集の歌には、仏教の影響がほとんど見られない。人麻呂が挽歌の中で死者に触れるとき、死者が赴くのは彼岸としての浄土ではなく、地下の黄泉の国である。黄泉の国は、この世と断絶しているわけではなく、連続している世界である。臆良の歌には、仏教を感じさせるものはあるが、それらを読むと、臆良は仏教を理解してはいたが、信仰してはいなかったと加藤は断定している。

万葉集の歌はまた、政治とも無縁である。遣新羅使の歌を集めたものを読むと、かれらは外交使節としての任務にはまったくふれず、ひたすら別れて来た家族を思う歌ばかりである。同時代の唐の詩人がたびたび政治をモチーフにして長い詩を作ったのとは大きな違いである。

長い詩といえば、万葉集は、古事記に続いて多くの長歌を乗せている。加藤は、日本の詩の原型は短歌であって、長歌は大陸の影響を受けたものと考えている。だから、日本文化が大陸の影響を脱却するようになると、自然に消えていったとみている。

以上を踏まえて加藤は、記紀や万葉集に現れた日本の土着思想の特徴を、以下の諸点にまとめている。第一に、感情生活の中心は男女関係であった。日本の土着思想の焦点は、何よりまず恋だったのである。第二に、民間信仰は、彼岸ではなく此岸つまりこの世のこととかかわっていた。それも近い将来に期待するといったものである。第三に、人間関係を秩序付ける原理は、共同体内部の調和にあった。万葉集には人の噂を気にする歌が多いが、それは、共同体内部の秩序に気を遣う態度のあらわれである。第四に、時間感覚が現在に固着していた。過去の思い出も、未来への予感も、全くあらわれていない。

こうした日本の土着思想は、万葉集の時代にあっては、貴族層から庶民まで区別なくとらえていたと加藤はいう。そのうえで、「来るべき時代におこりうることは、このような土着的世界観による外来文化の日本化であり、土着世界観そのものの内容の分化とその表現手段の洗練ということになるはずである」というのである。




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