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羊の歌:加藤周一の「わが回想」


「幼年時代によって魅惑されているある種の人々がいる。幼年時代が取り憑き、特権的なさまざまな可能性の次元において、彼らを魔法にかけたままにしておくのだ」。これは、メルロ=ポンティの著作「シーニュ」の序文(海老坂武訳」の一節だが、この文章を読んで小生が想起したのは加藤周一だった。加藤は「羊の歌」と題する回想記を残しているが、それを読むと、かれが幼年時代に取り憑かれた人だったという印象を強く受ける。

メルロ=ポンティは、上の文章に続けて次のように書いていた。「また、幼年時代によって、大人の生活のほうへ投げ出される別の種類の人間がいる。彼らは、自分には過去がなく、また、あらゆる可能性のすぐそばにいると思っている。サルトルは後者の人間に属していた」。つまりこの一連の文章の中でメルロ=ポンティが言いたかったことは、サルトルが幼年時代に縛られることなく、常に大人としての選択を行っていたということである。サルトルの選択を縛るものはない。かれはいつも自由な意思に基づいて選択している、と。

加藤周一も、幼年時代に縛られることはなかったと思うが、かれの性格形成に幼年時代が決定的な役割を果たしたことは、間違いないようである。そのことは加藤自身の回想録である「羊の歌」から伝わってくる。加藤の性格には、自分自身への充足感、社会に対しての冷めた見方、審美的な傾向と同居している科学的な精神、自分の幼年時代についてのノスタルジックなこだわりといったものが窺えるのであるが、それらはいずれもかれの幼年時代に培われたものだといえるのである。「幼年時代によって魅惑されているある種の人々」の一人に加藤をなぞらえたのは、そういうことを踏まえてのことだ。

加藤の父親は、流行らない町医者として生涯を貫いた。それでも生活は一応安定しており、中産階級のなかでも悪くない位置をしめていた。子どもに対しては抑圧的ではなく、比較的寛容であり、そのため子どもは自由な雰囲気の中で育つことができた。母親も子どもたちにはやさしかったようである。要するに、或る意味、理想的な家庭に加藤は生まれた育ったわけである。そういう幼年時代が、加藤に自分自身への充足感を与え、そのことで、いわゆる上品な振る舞いが身についたのだと思う。

社会に対しての冷めた見方とか科学的な精神といったものは、医者である父親の影響があるのだろう。加藤自身が意識的にそういう傾向を自ら養ったということもある。かれは可愛げのない子だと自認しており、他の人間や社会との間に一定の距離を設けていた。その距離感が、社会への批判意識と科学的な精神に結びついたのだろう。

加藤には審美的な傾向が指摘できるのであるが、それには母型の祖父の影響が大きいらしい。この祖父は、佐賀藩出身の家系に属し、一時ははなはだ羽振りがよかったのだが、祖父自身の無能もあって、没落の過程をたどりつつあった。没落しつつある上流階級の人間というのは、審美的な傾向を強く帯びているもので、加藤の母方の祖父も、そうした傾向を自ら楽しんでいた。加藤はその祖父を通じて、西洋的なスタイルとか快楽主義的な雰囲気を吸収したのであろう。加藤の業績は多岐にわたるが、文学と芸術が大きな比重を占める。そういったものに対する嗜好を養うについて、その祖父が多大な影響を加藤に与えたようである。

加藤が医者の道を選んだのは、やはり父親の影響だろう。父親は富農の家に生まれ、医術とは元来無縁だった。それが、自分の好みで医師の道を選んだ。当初は大学に残って研究者になることお目指したらしいが、大学側と折り合いがよくなく、開業医の道を選んだ。だが元来世知に疎かったので、開業医として繁盛することはなく、ほそぼそと患者を診る程度だったようだ。その父親から息子の加藤は影響を受けたのは自然である。加藤は詳しくは語っていないが、父親との折り合いはよく、父親の生き方に或る程度の尊敬を感じていたようでもある。だからかれが父親に倣って医者になったのは不思議ではないのだ。しかもかれは、医業にとらわれて生きるのではなく、むしろ医業の外に自分の生き方を求めた。かれは大学医学部の在学中から、フランス文学の授業のほうに熱心だったくらいである。フランス文学科では、渡辺一夫の薫陶を受けたというから、加藤としてはラッキーだったといえる。

加藤は医学部を卒業すると、そのまま大学病院に残って無給の医師として働くことになった。そのため、徴兵されることがなかった。自分自身は徴兵されるのを覚悟していたらしいが、結果的にされぬまま敗戦を迎えた。加藤が医者としての自覚をもっとも強く持ったのは、東京大空襲で被災した患者を診療したことだったようだ。戦争末期には、自分の属する医局が信州の追分に疎開した。それには大学の当局はまったくかかわっておらず、医局ごとの判断によるものだったらしい。戦争末期には、日本の官僚機構は全く機能しなくなっていたわけだ。

戦争が終わったとき、加藤はうれしく思ったようだ。「今や私の世界は明るく光にみちていた。夏の雲も、白樺の葉も、山も、町も、すべてがよろこびに溢れ、希望に輝いていた」と書いている。その希望の前では、東京の焼け野原も気にならなかった。「ほんとうのものは、たとえ焼け跡であっても、嘘でかためた宮殿より、美しいだろう」と思ったからというのである。

なお自分の回想録を「羊の歌」と題したのは、「羊の年に生まれたからであり、またおだやかな性質の羊に通うところなくもないと思われたから」だそうだ。




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