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文化と言語アラヤ識:井筒俊彦「意味の深みへ」を読む


アラヤ識というのは、唯識派の基本タームで、意識の深層をさす言葉だ。西洋哲学に比較した東洋思想の特徴は、意識の表層部分だけに着目するのではなく、深層部分にも着目することだ。意識というのは、表層のもっと深い部分に別の領域が開いている。これを下意識とか、深層意識とかいうが、それを唯識派の哲学ではアラヤ識という。この言葉を井筒俊彦は、東洋思想に共通する深層意識のあり方を表現した言葉として用いるわけである。この言葉は、東洋哲学を論じる際の、もっとも基本的なタームとして使われる。ひとり唯識派のみならず、東洋哲学全体にとっての、共通タームとしてだ。

唯識派では、意識の深層をかなり細かく分類する。だいたい七通りくらいになるという。だから意識とは、表層部分を含めて八つの階層からなるということになる。アラヤ識はそのうちもっとも深層の部分に相当する。唯識派を含めて東洋思想に共通する特徴は、人間の認識とか存在把握を、西洋哲学のように表層意識に限定して考えるのではなく、深層意識を含めた意識全体の働きととらえることにある。いわば表層意識と深層意識とがコラボレートして、人間の認識作用とか世界把握が行われると考えるわけである。

そこで、表層意識と深層意識のコラボレーションのあり方が問題となるわけだが、そのコラボレーションの様相を井筒は、「文化と言語アラヤ識」と題した小論の中で、こじんまりと展開して見せる。それを読めば、井筒による東洋思想の特徴づけがよくわかる。

そこで、アラヤ識とは何か、ということがあらためて問題になる。アラヤ識についての規定の仕方は二通りあるだろう。一つは操作的な概念と考えるやり方。も一つはあくまでも実在的なものとする見方である。操作的な概念というのは、事象を都合よく説明するための仮説のようなもので、必ずしも実在性にはこだわらない。これに対して実在性にこだわる見方は、あくまでもアラヤ識というものが意識の深層に実在し、我々は実際にそれを見ることができるという前提に立つ。井筒の立場もアラヤ識実在論である。

では、我々はどのようにしてアラヤ識の実在を確認できるのか。表層意識にとらわれたデカルト的な思考をする人には理解しがたいだろうが、我々には深層意識を直観する能力が備わっている。座禅とかある種の瞑想をすることで、我々は深層意識の世界をありありと見ることができる。唯識派も同じように考える。独特の内観を通じて、我々はアラヤ識を直観できると考えている。要するに、アラヤ識は意識の底に実在し、それを我々は直感できるのである。だからアラヤ識を無意識というのは適切ではない。無意識とは意識できないもの、あるいは意識の否定態つまり意識でないものを言うのに対して、アラヤ識は(特異な仕方ではあるが)意識(直観)できるからだ。

小生自身は、深層意識の領域を直感した体験がないので、それが自分の目にどのように映るのか見当もつかない。夢は、ある意味深層意識の表れと見ることもできるようだが、しかしそうだとしても、夢を見ることが直接深層意識を見ることを意味しないだろう。せいぜい深層意識の影響が夢として結実したというくらいにしか言えないと思う。その深層意識の領域を、唯識派の人びとはもとより、東洋思想のさまざまな流派の人びとが直観できているという。かく言う井筒自身にも、アラヤ識を直感したことがあるのだろうか。

井筒は、自分がアラヤ識を直感したとは、明言していないが、まるで自分の目で見たことを語るように、アラヤ識について語っているところをみると、それを直感したことがあるのだろう。あるいは自由自在に直観できる能力を備えているのだろう。その能力を持たない小生には、アラヤ識をめぐる井筒の説明には、ある種のホラ話をきかされているような気になるところがある。とはいえここでは、井筒が実際にアラヤ識を直感したうえで、その体験を語っているという前提で、かれの言い分を聞きたいと思う。

井筒によれば、人間の世界把握は、表層意識だけで成り立っているわけではなく、深層意識も深くかかわっている。意識は重層的な構造体だが、その構造体のすべてをあげて、世界把握を行っている。その把握の働きのなかで、表層意識の働きは大きいとはいえ、ほんの一部を占めるに過ぎない。表層意識は単独では機能せず、深層意識の働きを受けてはじめて機能するのだ。

デカルト・カント的な考え方をする人にとっては、我々の対象認識は、あくまでも意識の表層部分においてなされる。カントはカテゴリーという概念を持ち出したが、そのカテゴリーも、基本的には意識の表層部分にそなわっているものだ。カテゴリーというものは、すぐれてロゴス的なものであるが、ロゴスとは表層意識にともなうものなのだ。我々は対象を意識の表層部分で感覚という形で受け入れ、それに表層意識から取り出したカテゴリーを当てはめることで、あるものをそのものとして認識する、という構図になっている。つまり認識作用はすべて、表層意識のフィールドで行われるわけである。

ところが東洋哲学においては、対象はいきなり表層意識によって十全にとらえられるのではなく、いったん深層意識によって受容される。中にはいきなり表層意識によって捉えられる対象もあるが、それは深層意識との関係において、対象がすでに把握済みの場合だ。まだ把握されたことのない初めての新鮮な対象については、表層意識がいきなりそれを捉えるのではなく、深層意識が一旦受け入れる。深層意識によって受け入れられた対象は、明確に分節されておらず、混沌とした状態を呈している。それが明確に分節されるのは、表層意識においてである。つまり、対象はいったん深層意識で受け止められ、そこでは分節以前の混沌とした状態にあるが、それに分節が加わることによって、日常的な世界についての対象的な認識が生じてくる、という構図になっている。

対象が分節されるのは、言語を通じてである。言語を通じて名前を与えられることが、対象の知的認識の内実である。言語は、コミュニケーションの道具である前に、世界認識のエンジンというべきものだ。我々は言語を通じて、あるいは言語によって対象的な世界を把握するのである。その言語とは、文化と深く結び付いている。と言うか、文化そのものだ。我々個人は、誰でも特定の文化に属し、その文化の枠組みを通じて世界を把握するように出来ている。だから、同一の対象でも、違う文化の人にとっては、違ったふうに受容される。言葉の相違は、世界認識の相違につながるのである。

こういう議論は、アラヤ識を操作的な概念だと考えれば、スムーズに受け入れることができる。しかし井筒のように、それを実在的なものだと断言されると、その実在についての体験を持たない小生のような者には、やはり実感をもって受け入れることができない気がする。東洋人である小生でもそうなのだから、デカルト・カント的な思考になれた西洋人には、ちんぷんかんぷんに聞こえるだろうと思う。


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