学海先生の明治維新
HOME ブログ本館 東京を描く 日本文化 知の快楽 英文学 プロフィール掲示板


学海先生の明治維新その五十五


 廃藩置県によって藩知事を免ぜられた旧藩主堀田正倫公は政府の方針に従って東京に居住することとなった。一方大参事以下の旧藩士は当分の間現職にとどまるべしとの指示が出された。学海先生もそのまま権大参事の職にとどまったが、いずれ近いうちに辞職するつもりでいた。もはや佐倉藩としての実体を失い、中央政府の出先と化したところにとどまるべきいわれはないと考えたからである
 九月十五日正倫公が東京深川にある邸宅に向け出立した。藩士一同城の内外に集まってお見送りをした。学海先生も当然馳せ参じた。皆々別れを惜しむうちにも、学海先生の惜別の情には特別のものがあった。その気持ちを先生は日記に次のように記している。
「げにいくものとせこの城地を伝へ給ひしを、今ぞ立出給へることなれば、御心もさこそはかなしと思召らめ。まして久しく事なれ奉りし臣子等のこころはたとへむかたなく、御馬の前後に立ふさがり涙にむせぶはことはりなり」
 学海先生は別れを惜しむあまりに鹿島橋まで見送ったのであった。
「秋霧ふかく立こめて、そぞろに肌さむきここと也」と続けて記している。
 廃藩置県に伴い早速一連の改革が行われた。官制改革はその中心となるもので、従来の太政大臣・納言・参議の三職に代えて正院・右院・左院が置かれ、中央集権的な官僚制の体裁が整えられた。
 地方行政に関わりの深い改革としては、まず軍政の改革が行われた。従来統一した軍政はなく、新政府の軍事力は薩長土三藩の藩兵に頼っているところがあったが、政府直轄の軍事力の整備が行われた。すなわち各県から規模に応じて兵を出させ、それを兵部省が所管する体制が整えられた。これに伴い、大中の県は小隊を常備軍として差し出し、それを各鎮台が管轄することとなった。佐倉藩が属することとなる県は東京の鎮台に兵を差し出すこととされた。
 ついで身分制度にかかわる改革が行われた。すでに国民の戸籍を全国一律に管理する改革が行われ、その中で旧来の身分にかわり、華族、士族、平民の新しい区分が生まれていたが、建前としては各身分の間には従来のような差別はないとされた。例えば平民でも官吏になれることや、身分間の通婚を許すとかいったことである。その中で二つのものがとりわけ注目された。
 一つは武士の散髪・廃刀を許す措置である。これはあくまでも許すということで、そうせよと強制したものではない。強制すれば大いなる抵抗が起ると見込んだ政府は、これを「勝手」と称して個々人の選択にまかせた。なし崩し的に散髪・廃刀を普及せしめようとしたわけである。
 もう一つは被差別民の呼称を廃して名目上の四民平等を実現したことだった。これによって従来の賤民身分のものは制度上は他の身分と差別されることがなくなった。しかし現実的な差別は残ったばかりか、従来賤民身分の「特権」とされてきた租税の免除が撤廃されるなど、経済的な負担がかえって増えたという面もあった。
 こうした改革に学海先生も旧藩の幹部として向き合うべき立場だったわけであるが、廃藩置県後当面の間は新制度への移行期ということもあり、どうも中途半端な立場を意識せざるを得なかった。県が本格的に稼働するのは十一月以降のことである。それまでの間学海先生ら旧藩の幹部は、新体制への移行の準備にあたったわけである。
 十月八日に岩倉具視卿を団長とする特命全権大使の一行総勢四十八人が欧米へ向けて旅立った。これには大久保や木戸など新政府の要人が随行しており、まさに新政府をあげての外遊という観を呈していた。そのようなことができたことの背景には、廃藩置県が成功して維新の大業に一区切りがつき、欧米を手本とした新しい国づくりに乗り出すべきだとの、新政府の幹部の意向が働いていた。また今の時期に日本を留守にしても大きな混乱が生じることはないだろうとの彼らなりの自信があったとも思われる。
 この使節団の派遣に随行して、五人の少女がアメリカ留学のために旅立った。その中にはもと佐倉藩士津田仙の娘うめも含まれていた。また学海先生と面識のあった斗南藩大参事山川大蔵の妹捨松もいた。時にうめ六歳、捨松は十一歳だった。彼女らは渡米後各々米国人の家庭に預けられ、そこで少女時代を過ごすこととなる。
 十一月中旬、諸県廃置の沙汰があった。これによって従来の県と藩とが廃置統合され、北海道及び三府七十二県となった。下総の国の領域は佐倉に庁を置いて印旛県と称されることになった。学海先生にとって、かねて覚悟していたことがついにやって来たという感じであった。
 先生は今後の身の振り方を含め、先輩の西村茂樹と話しあった。西村は先生にとっていざという時にもっとも頼りになる存在だったのである。
「いよいよ佐倉藩も消滅することとあいなりました。感慨無量のものがありまする」
「オヌシは格別そうじゃろう。先代の殿さまから目をかけていただき、藩の要職にもついて、充実した生き方をしておったからの。藩がなくなると身のよりどころがなくなるわけじゃから、やはり感慨も深くなろうというものじゃ」
「貴殿は今後どのようになさるおつもりですか?」
「拙者は文章を以て身を立てたいとかねて思っておった。これがよい機会だから、致仕して野に下ろうと思う。西洋には野にあって国事を論じたり民を啓蒙することは広く行われておる。日本でも野にあって国事を論じる人が出るべきじゃと拙者は思っておるので、まずは自分がその先蹤たらんと思うのじゃ」
「それはなかなか壮大な気迫でござる。それがしもこのままずるずるとして、県の属吏たらんことを欲するより、潔く致仕して在野の論客たらんと思っておりまする」
「するとオヌシも県に仕えることは考えておらぬのか?」
「はあ、辞表を出したいと思っておりまする」
「じゃあ、ワシがそれを預かって、政府の役人に手渡してやろう。拙者も辞表を提出しようと思って居った、ついでじゃ」
 印旛県の県令には小菅県知事をつとめていた河瀬秀治が任命された。河瀬は丹後宮津藩士だったが、世渡りのうまさを認められて新政府に重用されていた。後に商人に転身したことからわかるように、なかなか如才ない男だった。
 十二月の半ばになって、その河瀬を吉見明が佐倉に案内した。吉見は西村の致仕の意向を知って、自分が西村に代って印旛県の実権を握ろうと思い、手を尽くして印旛県の属吏になったうえにその幹部たらんことを狙っていた。学海先生はそんな吉見の変わり身の早さを見るにつけても、世も末だとの感慨を抱かずにはいられなかった。
 河瀬は佐倉に来るとまず西村との面会を希望した。西村は致仕するつもりのことゆえこの面会の申し出を一度は断ったが、相手が三顧の礼を尽くして望むので、面会することとした。学海先生もその面会の場に立ち会った。
「それがしはこのたび印旛県令を拝命した河瀬秀治でござる」
「拙者は旧佐倉藩大参事西村茂樹でござる。こちらにいるのは権大参事をつとめておった依田七郎君でござる」
「お二人のことは以前よりよく存じてござる。このたび印旛県令を拝命したについては、お二人の力添えを是非賜りたいと存ずる」
「拙者はかねてより致仕して下野するつもりでござった」
「そこを曲げて、それがしに力を貸してはいただけぬか?」
 こんなやりとりが二人の間には繰り返されたが、その場では結論が出なかった。だが翌日再び面会して、河瀬県令から礼を尽くして要請されるに及び、西村もついに折れて、当面河瀬に協力することを約束した。学海先生も当面その西村に歩調を合わせる決意をした。少なくとも旧藩から県への引き継ぎが終わるまでは、県令に協力しないわけにはいくまいというのが、その判断を下させた理由である。
 県への引継ぎについては、すでに準備が進んでいた。国元と東京を併せた財産の明細であるとか、藩士の俸禄を始め財政にかかわることとか、藩の負債の明細について、公正に引き継ぎたいというのが旧佐倉藩重役の一致した意向だった。他の藩では廃藩の混乱に紛れて藩の財産が不当に横流しされたり、負債の踏み倒しが行われた例もあったようだ。そんな事例を聞くにつけても、佐倉藩は潔く振る舞いたいと思っていたのである。そんなわけであるから、県への引継ぎが完全に終わるまで、旧佐倉藩として領内の統治を行っていた。学海先生の日記には、十月十一日に凶悪犯三人を江原の刑場で斬罪に処したとあるが、これは県への移管直前まで佐倉藩が領内の統治を滞りなく行っていたことを物語るものだ。
 佐倉藩の負債は総額七万両に上った。そのほかに戊辰戦争の時に政府から楮幣四万両を借りていた。その返済をしなければならないが、それには藩の貯金から二万両、財産の売り払い代金から二万二千両を当てることとし、その余は知事と藩士の俸禄を一部削って、毎年七千両づつ、五年で返済するという計画を立てた。新政府は、各藩の財産はほぼ無条件で召し上げる一方、その負債は別途返済させると言うかなり一方的な態度で臨んだのである。




HOME | 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである