学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その五十六


 小説の草稿のコピーを区切りのいいところでその都度英策に送ってきたが、その感想を聞いてみたいのと、正月の初詣を兼ねて、小生は英策を誘って成田へ出かけた。いつか上野の谷中墓地を訪ねた時同様、乗る列車を示し合わせて、小生は船橋を十時頃に停車するその列車に乗り、英策は佐倉で乗り込んで来た。一番前の車両だ。これだと成田駅で降りた時に、改札口に一番近い。
 京成の成田駅で降りるとまっすぐ新勝寺に向かった。参道は初詣客でごった返している。我々は人混みにもまれながらゆっくりと歩き、やがて新勝寺につくと、本堂に参拝し、その後本堂裏に広がる庭園を散策した。庭園の芝生の上では蓆を敷きのべて茶をたてる人々の姿があり、心字池の水面には鴨が泳いでいた。
「参道はえらい人混みだったが、ここはまた随分とゆったりしているね」
 英策が水面の鴨を眺めながら言った。
「成田へお参りするのは久しぶりだ。昔はよく来たのだが、船橋に引っ越して以来とんと来ることがなくなった」
「船橋の人はどんなところに初詣するんだい?」
「色々だと思うが、一番手っ取り早いのは中山の法華経寺だろうね。法華経の嫌いな人は東京まで出かけるだろうし、また神社が好きな人は船橋大神宮がある」
「お前はどこに行ってるんだ?」
「法華経寺が多いな。俺の家はもともと禅宗だったんだが、お袋が法華経に鞍替えしたんで、俺もお袋に影響されて法華経など読んでいるうちに、法華経寺に初詣するようになったというわけさ」
「佐倉には日蓮宗の寺が多いからな」
「ああ、両親の墓がある寺も日蓮宗だよ。なんでも佐倉の寺のなかで最も歴史の古いほうに属するらしい」
 庭園を散策した後、まだお昼には間があったが、参道の坂の途中にある一軒のうなぎ屋に入って昼餉をとることとした。
 テーブルに腰かけるとビールとつまみを注文した。
「お前の小説を読んでみたが、どうもしっくりしないところがある。依田学海の生きざまを描いた部分はそれでいいとして、その合間にところどころ挟まれている部分が問題だ。これは作者自身の個人的な体験ということになっているようだが、それが依田学海の生きざまとどのようなかかわりがあるのか、よくわからない。何らかのかかわりがあるのなら、二つの全く異なる物語を同時並行的に描くというのもわからないではないが、この小説の場合には、この二つの部分が全く無関係のように映る。これでは小説としてのまとまりを損なうのではないのか?」
「俺もそれは危惧していたところなんだ。いつかも言ったとおり、小説の語り方についていろいろ思い悩んでいるうちに、その自分の思い悩みを小説の一部にくりこんで表現してしまったために、あんな風に、自分自身を語る部分を小説の本文の間にさしはさむことになってしまった」
「それはそれで、別に悪いというわけじゃない。俺が言っているのは小説としてのまとまりのことなんだ。いつくか別の物語を混在させている小説というものもありえないわけではない。しかしその場合にはその異なった物語の間に、何かしらつながりがなければならんだろう。でなければ小説としての一体感が損なわれてしまう。つまり締まりがなくなってしまうというわけだ」
「俺もそれは感じているよ。だからどこかでその二つの部分に橋渡しをするつもりではいる。その準備として、学海先生と会津とのかかわりを暗示しておいた」
「会津は小説の語り手であるお前のルーツだから、それを通じて依田学海との間で橋渡しができるだろうということか?」
「まあ。そんなところだね」
「もう一つしっくりしないのは、お前自身の個人的な体験を小説の中に持ち込んでいることだ。しかもあかりさんまで持ち込んできて、そのあげくにあかりさんとのセックスまで取り上げている。これじゃ、あかりさんには読ませられないのじゃないかね?」
「そこは悩ましいところだね」
「おい、ちょっと待てよ。そのあたりをきちんと整理しないままにこの小説を書いているのか? そうだとしたらちょっと無責任だぞ」
 英策はこんなふうに言って小生の姿勢を厳しく批判したのだった。
 ビールを飲み終わると熱燗を注文し、あわせてうな重を持ってきてくれるように頼んだ。うなぎは脂が乗っていてうまかった。
 腹がくちくなり、ほろ酔い加減になったところで食堂を辞し、駅に向かった。路上には新勝寺の方向に向かって歩いてくる人々が、先ほどよりも更に密度を増してうごめいていた。
 我々は一緒に佐倉駅で降りたが、そこで別れることにし、小生は独り宮小路の家に向かった。木立に深く包まれた間道を通り、途中摩賀多神社に立ち寄ってから家に入った。
 雨戸を開けて風を入れ、台所でインスタントコーヒーをいれて、四畳半の部屋でそれを飲みながらくつろいだ。南向きの大きな座敷より、この小さな空間のほうがずっとくつろぐのだった。
 しばらくすると八畳の座敷のほうから人の気配が伝わって来た。小生は学海先生だと直感した。
 八畳間に移ると、学海先生が縁側に立って庭のほうを見下ろしているのが見えた。例の古代を感じさせる服装に身を包み、威厳を感じさせるいでたちだった。
「学海先生、おひさしぶりです」
「ワシは先生と呼ばれるようなものではないと、いつか言ったではないか?」
「じゃあ、学海先輩。先輩ならおかしくはないでしょう? 少なくとも私よりは早くお生まれになったのですから」
「口の減らぬ御仁じゃな。して今日は初詣の帰りかの?」
「よくご存じですね」
「正月じゃからの、正月には誰もが初詣をするものじゃ」
「どこに参ったかおわかりになりますか」
「成田山じゃろうが。先輩をためすような言い方はやめるものじゃ」
「成田山は佐倉藩の領地内にあったと先生の日記にはありましたね」
「領地内にはあったが、佐倉藩としては寺の運営に口を出すことはほとんどなかった。成田山は昔から治外法権を享受しておったからな。口を出すのは特別のことじゃ」
「大覚寺と成田山がもめた時も、佐倉藩はあまり口出ししなかったのでしょうか?」 
「ほとんど口出しはしておらぬ。坊主の喧嘩に口を出してもろくなことはないからの」
「ところで今日はどんな風の吹き回しでここにおいでになったのですか?」
「屋敷のまわりをよく観察しておきたかったのじゃ。いずれこの屋敷を舞台に面白いことが起ると予感がするのじゃ。そこでこの屋敷の隅々まで見ておきたいと思ったのじゃ」
「それで庭のほうを熱心に見下ろしていたわけですか?」
「まあ、そんなところじゃ。ところでこの屋敷は敷地の一部が小高くなっておるな。そこに人が隠れるほどの穴を掘るのも無理ではないの?」
「なんでも戦時中に堀ったという防空壕の跡があるそうですよ」
「ほお、そうか。防空壕というのは、空からの襲撃を防ぐ穴という意味か?」
「そうです。日本はアメリカと戦争をして、国中を空襲と言って空から攻撃されました。佐倉にもその攻撃が及ぶと言うので、それに備える穴を崖の内部に掘ったらしいのです」
「ふむ、ふむ、そうか、ところで先日の京都旅行は楽しかったかの?」
 学海先生がいきなりこんな話を持ちだしたので、小生は多少あっけにとられた気持ちになった。
「先生はあの旅行のことを存じておられたのですか」
「存じておった。オヌシに同行したあのオナゴは、なかなかよいオナゴじゃの。オヌシがたびたび抱きたくなるのもわかるというものじゃ」
「先生は私と同行した女性のことも存じておられたのですか?」
「存じておった。オヌシがあのオナゴをたびたび抱いたことも存じておる。京都の旅館でもオヌシはあのオナゴを抱いたではないか。その前に山登りをした時には、一晩で三度もあのオナゴを抱いたのお」
「なんですって? そんなことまで存じていたのですか?」
「存じておった。ワシはオヌシのことならなんでも存じておるのじゃ」
「何故そんなことが可能なのですか?」
「オヌシはワシのことをまだよくわかっておらぬらしいな。ワシには今の時代の人間にはできぬことも簡単にできるのじゃ。その理由はいつか言ったとおり、ワシはこの世とあの世を自由に往来できるがゆえに、オヌシにとってはこの世であり、ワシにとってはあの世であるところのものを、手に取るようにわかるのじゃ」
 小生はすっかり意気消沈してしまった。北八ヶ岳の山子屋であかりさんを抱いたとき、あるいは小生があかりさんに抱かれた時、小生は学海先生に見られてはいないかと再三周囲を窺ったものだが、その際には学海先生の気配を感ずることがなかったので、安心してあかりさんとのセックスに没頭したのだった。だが実際にはそんな小生とあかりさんとのセックスが学海先生には筒抜けに見えていたのだ。
 小生は愕然とせずにはいられなかった。これでは、たとえ眼前に学海先生の姿を見ることがなくとも、自分のしていることは常に筒抜けに見られていると覚悟しなければならない。そんな状態で今後あかりさんとのセックスに耽ることができるだろうか。そう思うと小生はインポテンツになるのではないかとの恐怖に見舞われるのであった。




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