学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その七十八


 五月の下旬、あかりさんから職場に電話がかかって来て、これから会えるかと聞かれた。電話を受けたのは午後一時過のことで、二時から重要な会議を控えていた。小生は会議の主催者なので外すわけにはいかない。それでその会議が終わったらすぐにでも会うようにしよう、四時には職場を出るようにするから、四時半には銀座のいつもの喫茶店に着けると思う。そう言って電話を切った。
 会議を手際よく運営して四時ちょっと過ぎに職場を出ることができた。JR線と地下鉄を乗り継いで銀座一丁目に至り、四時半をちょっと過ぎた頃に約束の喫茶店に着いた。あかりさんは先に来て椅子に腰かけ、小生の来るのを待っていた。彼女が先に来て待っているのはこれまでにないことだ。余程の事情があるのだろうと小生は感じた。
 小生はあかりさんの座っているテーブルに近づいて
「やあ、お待たせ」と挨拶した。
 あかりさんはにっこりと微笑を浮かべて応えた。今日の彼女はアイヴォリー・ホワイトにブルーの水玉模様がついたワンピースを着ていた。
「なにか急なことが起きたのかい?」
「そうじゃないけど、あなたと会いたい気持ちが急に高まったのよ」
「へえ、めずらしいね。それに僕より先に来て待っているなんて、それもまた珍しい。そんなに切羽詰まった事情があるのかい?」
「事情なんかないわよ。事情がなくても会いたくなることはあるものなの」
「君にそんなふうに思われるなんて、僕も果報者だね」
「軽口は言わないで。ねえ、これからホテルに行きましょう」
「どうしたんだい、急に」
「抱いて欲しいのよ」
 あまりに急にこんなことを、しかも逢った途端に、それもあっけらかんとした口調で言われたので、小生はいささか面食らってしまった。
「いったい、どうしたんだい?」
「理由なんかないわ、ただあなたにすぐにでも抱いて欲しいのよ」
「そりゃ、僕としても、すぐにでも君を抱くのに異存はないさ。ただ、あまり急な申し出なので、ちょっと驚いたんだ」
「ぶしつけだったかしら?」
「いや、素直で好感が持てるくらいだよ。コーヒーを一杯飲んだら出よう」
 小生はウェートレスを呼んでコーヒーを注文し、ホテルに予約を取ろうとして立ち上がりかけたが、コンドームの用意がないことに気づいた。まさかこれから銀座の薬局でコンドームを買うというのも格好が悪い。コンドームを用意してあるホテルに行くしかない。つまりラブホテルだ。
 というわけで小生は電話をすることはやめ、コーヒーを飲んだ後彼女を鶯谷のラブホテルに連れていくことにした。
 有楽町から山手線に乗って鶯谷に行き、ラブホテルの密集している一帯から一軒のホテルを選んで入った。
 鍵を受け取って部屋に向かう途中、若い男女とすれ違った。二人ともまだ幼げな表情に見える。こんな子どもみたいな男女でも、セックスの仕方は知っているんだな、と変な事を思いながら、またこの子たちから見れば自分たちは相当の年寄りに見えるんだろうとも思いながら部屋に入った。人間年をとっても、セックスは楽しめるものだ。
 部屋に入るとあかりさんはそこいらじゅうを興味深そうに眺めまわした。天井に鏡がはめてあり、ベッドの上の様子が丸写しになっている。部屋の一角にあるバスルームは透明のガラスでできていて内部が丸見えだ。
「ラブホテルって初めてきたけど、面白い作りね」
「ムードを高める工夫がしてあるのさ」
「そのムードに乗ってセックスをするってわけね」
「ああ、ぼくらもそのムードに酔いしれてセックスしよう」
「ちょっと言いにくいんだけど、今日はあの日なのよ。でも、とてもしたい気持ちなの。あなた、いや?」
「いや、とんでもない」
「じゃ、キャップをかぶせて、後ろからそっと入れてみてくれる?」
 我々は事務的に服を脱いで裸になると、まずバスに入った。彼女は小生に背中を向けて陰部をシャワーで洗った。床に血が滴って赤く染めた。小生は異様なほど気持ちが高ぶった。
 我々はベッドの上に並んで横たわり天井を見上げた。天井の鏡に二人裸で横たわった我々の姿が映し出された。彼女は非常に豊満に見えた。それに比べると小生はいささか貧弱に見えた。だから貧弱な小生が豊満なあかりさんを抱くのではなく、豊満なあかりさんが子どものように華奢な小生を抱くのだと思われた。それでもよいではないか。小生はそう思った。
 そんなわけで小生はしばしの間あかりさんに抱き締められて幸福な気分にひたっていた。あかりさんはあかりさんで、小生を我が子を抱くように抱き締めながら、時折小生の男根を弄んだ。
 そのうちあかりさんは腹ばいになって尻を高く突き出した。入れて欲しいという合図だ。小生は男根にコンドームをかぶせると、赤く腫れあがったあかりさんの女陰にそっと入れてやった。
 セックスが終わった後、我々は長い間裸のままベッドの上に並んで横たわっていた。
 そのうちあかりさんがぼちぼち話を始めた。
「実はわたし、いまとても精神不安定な状態なの」
「どうしたんだい?」
「何かわからないけれど、罪悪感のような、あるいは焦燥感のようなものにいつも駆られている感じなのよ」
「理由は娘さんのことかい?」
「ええ、娘の私に対する態度が最近は時々敵対的になることがあって、びっくりさせられることが多いのよ。それが抑圧として働いているのかもね」
「娘さんが敵対的になる原因に心当たりがあるのかい?」
「わたしに男がいることだと思うわ。以前はそのことについてあまり気に掛けないでいたようなのに、最近はそれが許せなくなったのかしら。時折わたしを責めるようなことを言うのよ」
「それは困ったね」
「で、いまは行方をくらましているの」
「家出ってこと?」
「ええ、おとといから家に帰ってないのよ。心当たりを探したけど見つからないの」
「それは心配だね」
「お金を持っていないと思うから、いつまでも家出が続くとは思えないけど、でも、女の子のことだから心配なのよ」
「その心配が原因で君の心が乱れているってこと?」
「まあ、科学的に分析するとそういうことになるわね」
「ご主人はなんて言っているんだい?」
「そのうち戻ってくるだろうから、そんなに騒ぐこともないなんて、気楽なことを言っているわ」
「ご主人にも娘さんの居所に心当たりはないの?」
「わたしのほうが、これでも娘のことには詳しいくらいよ」
「警察には届けたのかい?」
「いいえ、まだ。警察に届けると色々面倒な騒ぎになると思って」
 こんな具合に、あかりさんが語ったのは自分の娘が母親である自分に反抗していることと、それがあかりさんにとってどんなに心労の種になっているか、ということだった。
「でも、悪い奴らにつかまると面倒だから、いつまでも放置しているわけにもいなかいだろうね」
「ええ、だから三日待っても帰ってこなかったら、警察に相談しようと思ってるんだけど。なるべくそうならないで欲しい」
「思春期の子ども、それも女の子のことだから、なかなかむつかしいね」
 小生にはそう言うくらいしかほかに、言える言葉が見つからなかった。
 ともあれこれで、あかりさんが何故急に小生に連絡してきて、しかも自分のほうからセックスを持ちかけてきたか、その理由がわかったような気がした。
 ラブホテルを出たあと、一緒に食事をしようと誘ったが、あかりさんは娘のことが心配だから早く家に帰りたいと言った。もしかしたらもう戻っているかもしれない。そうしたらお互いに心を開いて話し合ってみたい。あかりさんはそう言うのだった。
 翌日の午前中、あかりさんから職場に電話があって、昨夜八時頃娘のひかりちゃんが無事戻って来たと報告してくれた。小生は安堵感を覚えた。
 その数日後、小生はあかりさんと例の喫茶店で会って、今回の顛末をやや詳しく聞かせてもらった。
 ひかりちゃんには親しい女ともだちがいて、始めはその子と一緒に家出することを決心して徘徊を始めたのだが、その子はその日のうちにホームシックにかかって家に帰ってしまった、そこでひかりちゃん一人で方々をうろつきまわっていたが、そのうちお金も底をつき、心細くもなって来たので、三日目の夜に家に戻ってきたということだった。
 その間どこで寝泊まりしていたのか尋ねると、深夜喫茶のようなところで夜を明かしたという。変な人に声をかけられなかったかと聞くと、かけられたことはあるけど、相手にしなかったと答えたそうだ。
 一歩間違えれば、今頃はいかがわしい連中の餌食になっていたかもしれない。それを思うと親としていたたまれない。また罪悪感も覚える、そうあかりさんは言うのだった。
「いや、自分をそんなに責めるものではないよ。自分を責めた所で、なにか前向きなことが待っているわけでもない。ところでひかりちゃんを、このことであまり責めない方がいいかもしれないね。あまり責めるとかえって反抗的になって逆効果だ」
「ええ、責めるつもりはないけど、世の中の道理については話して聞かせるつもりよ。いまがあの子にとって一番肝心な時期ですもの」
 そういうあかりさんを見ていると、小生は彼女の中に母性のたくましさを感じて、自分の出る幕はないと思い知らされるのであった。




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