第二章 隅田川今昔物語
古代王朝時代における東国は僻遠の地であり、そこを流れる隅田川は名もない地方の川であったにちがいありません。都の人々にとって、川といえばまず吉野川であり、また平安京の近くを流れる淀川でした。

万葉集をはじめとする古代王朝時代の和歌の中に、隅田川がうたわれたという記録がないのも、こうした歴史的背景に基づくのでしょう。万葉集は、防人の歌として、東国出身の兵士たちの歌を数多く載せていますが、その中にも、隅田川が歌われたという確実な証拠は見当たらないのです。

隅田川が王朝文学の中で始めて登場するのは、あの伊勢物語の中においてです。余りにも有名ですので、知らない人はいないと思いますが、ここにその一節を抜き出してみましょう。

「なほ行き行きて 武蔵の国と下つ総の国との中に いと大きなる河あり それをすみだ河といふ その河のほとりにむれゐて思ひやれば 限りなく遠くも来にけるかなとわびあへるに 渡守 はや舟に乗れ 日も暮れぬ といふに 乗りて渡らむとするに 皆人ものわびしくて 京に思ふ人なきにしもあらず さる折しも 白き鳥の嘴と脚と赤き 鴫の大きさなる 水のうへに遊びつつ魚をくふ 京には見えぬ鳥なれば 皆人見知らず 渡守に問ひければ これなむ都鳥といふをききて
    名にし負はばいざこことはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ 舟こぞりて泣きにけり」

なにせ、古い時代のことですから、業平一行が隅田川のどのあたりで舟に乗ったかはよくわかっていません。いまの言問橋のあたりだろうという学者もいます。あるいはそうかもしれません。業平たちのみた都鳥は、その記述から見てかもめのことらしく、現在の隅田川に浮いているかもめたちの先祖だったと思われます。

在原業平の生きたのは九世紀後半、伊勢物語が編まれたのは業平の死の直後、紀元900年前後のこととされています。これ以来、隅田川はたびたび、歌詠みたちの関心を引く存在となっていきます。文学作品の持つ影響というものは、大変なものなのですね。

下って150年ばかり後、更級日記の作者藤原孝標の女が、東国から京へ上る途中に、武総国境の河をわたる記述を残しています。これも抜き出してみましょう。

「そのつとめて そこをたちて 下総の国と武蔵の国の境にてある ふとゐ河といふがかみの瀬 まつさとのわたりの津に泊まりて 夜ひと夜 舟にてかつがつものなど渡す めのとなる人は をとこなどもなくなして 境にて子うみたりしかば はなれて別れにのぼる いと恋しければいかまほしくおもふに 兄なる人いだきてゐていきたり・・・今は武蔵の国になりぬ・・・野山 葦荻の中を分くるよりほかのことなくて 武蔵と相模との中にゐて あすだ河といふ 在五中将の いざこことはむ とよみける渡りなりけり 中将の集にはすみだ河とあり 舟にて渡りぬれば相模の国になりぬ」

この文を読むと事実関係にだいぶ混乱があることがわかります

ふとゐ河は渡良瀬川の下流で、現在の江戸川にあたりますが、この川は武総国境の川ではありません。またあすだ河あるいはすみだ河とあるのも、前後の記述からして隅田川とは思われず、多摩川あるいはその先の境川を指しているようです。武総国境の川は太古から隅田川であり、多摩川は武蔵国内の川であって国境の川ではなかったのです。

更級日記は少女時代の記憶をもとに晩年になって回想したものですから、事実の把握にあいまいさが残るのは無理からぬことかもしれません。東国から京へ上る間には、この先も大井川、天竜川、木曽川といった大河がひかえていたわけですから、それよりもマイナーな関東地方のいくつもの河川について混同が生じるのはありうることです。そのなかで、すみだ河がことさらに言及されているのは、歌枕のもつ神秘的な力によったものなのかもしれません。






1 2 3 4 5 6 7




東京を描く東京の川と橋川と橋の歴史次のページ

 1 王朝文学に現れたる隅田川