2  中世前期の隅田川
中世の曙を迎え、東国武士団の動きが活発になるとともに、関東周辺の土地も歴史に登場するようになります。その中で隅田川がどう書かれているか、みてみましょう。

東国武士団の走りといえばなんと言っても平将門です。その生涯を描いた将門記には、残念ながら隅田川への言及はありません。将門は常陸の南部を地盤にしていたので、隅田川辺で暴れまわったことがなかったのでしょう。

少し下って、源平の時代になると、隅田川への言及が現れます。頼朝の旗揚げに際して、隅田川がその舞台になるのです。吾妻鑑によると、頼朝は石橋山の戦いに敗れて安房に逃れた後、千葉介らの応援を得て鎌倉に攻め上りますが、行く先々で軍勢を集めながら、数万の軍団となって太日、隅田の両河をわたり武蔵の国に入ったとあります。

義経記は隅田川について次のように描いています。

「坂東に名を得たる大河一つあり。此河の水上は上野国刀根荘、藤原といふ所より落ちて水上遠し。末に下りては在五中将の墨田河とぞ名付けたる。海より潮さしあげて、水上には雨降り、洪水岸を侵し流れたり。」

現代人にとって、この記述には腑に落ちないところがあります。前半の記述は利根川をさしていると思われ、したがって隅田川は利根川の下流として捉えられているのです。長い歴史の中で、関東を流れる河川には幾度か流路の変更もあったと思いますが、それにしても、この結合は不自然に思われます。義経記は歴史書というより芸能作品としての色彩が強いので、事実が劇的効果に道をゆずったのではないでしょうか。

鎌倉時代の末期に、中世日本版「浮かれ女盛衰記」ともいうべき色恋の物語「とはずがたり」が書かれています。この中で、主人公の後深草院二条が浅草寺観音堂を訪ねた折に、付近の川辺を散策する場面が出てきます。興味深いので、書き出してみましょう。

「さてもすみだ河原近きほどにもと思ふも、いと大なる橋の清水祇園の橋の体なるを渡るに、きたなげなき男二人逢ひたり、このわたりにすみだ川といふ川の侍るなるはいづくぞ、と問へば、これなむその川なり、この橋をばすだ川の橋と申し侍り、昔は橋なくて、渡し舟にて人を渡しけるも、わづらはしくとて、橋出できて侍り、すみだ川などはやさしきことに申しおきけるにや、賤がことわざには、すだ川の橋とぞ申し侍る」

浅草寺は寺の由緒書にもあるとおり、推古天皇の36年(628年)、隅田川で投網漁をしていた漁師檜前浜成、竹成兄弟の網にかかった観音像をお祀りしたのが始まりとされ、少なくとも平安時代以降は現在の地に伽藍を構え続けてきた寺です。したがって二条が訪れたときの観音堂もほぼ現在の浅草寺と同じ地にあったろうと思われます。このことを予備知識にして「とはずがたり」を読むと、いくつか面白いことに気づかされます。

まずこの文に先立つ場面で、主人公は岩淵の宿(現在の北区岩淵でしょう)のあたりを流れる川を入間川といっています。隅田川の上流のことだったと思われます。主人公はその川との連続性を大して意識せずに、浅草寺近くですみだ河原を探していたことが伺われます。在五中将の歌の呪縛にかかっていたのでしょう。

さて、この文には、隅田川に清水・祇園に架かる橋のような体裁の橋が架かっていたことになっています。しかし、歴史をいくら訪ねても、この時期の浅草寺近くを流れる隅田川に橋が架かっていたという実証は得られません。実際、清水・祇園という名からは、隅田川のような大河に架かっているべき橋のイメージは湧いてきません。おそらくはもっと幅の狭い他の川だったのではないでしょうか。当時、浅草寺の西側にいまの石神井川が流れていたはずですから、この橋は石神井川に架かっていたものかもしれません。

時代がやや進んで北條執権滅亡の前後、隅田川は足利・新田両軍決戦の場となります。ただし頼朝のときは旗揚げの雄叫びに満ちた場でしたが、今回は尊敗走の場となりました。太平記によれば、石浜といいますから現在白鬚橋の架かっている辺りで両軍衝突、わずか五百の新田軍が三万の足利軍を破り、尊氏は馬で川を渡り難を逃れたことになっています。

昔から日本の武士の決戦の場に川が選ばれるのには、三国志の影響があるのかもしれません。






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