応仁の乱(1467年から)を経て15世紀も末になると、足利政権の権威は地に堕ち、世はいわゆる下克上の様相を呈してきます。関東地方はそれまで足利公方の権力基盤でしたが、管領上杉氏が実力を蓄え、公方方と勢力争いを始めます。関東全域の武将が両陣営に分かれ、各地で死闘を繰り広げた様は、小栗判官の物語や、後に書かれた利根川図誌によって知ることができます。

この時期の江戸には、上杉方の武将大田道灌が今の皇居北の丸あたりに砦を築き、足利方との戦に備えていました。隅田川には、今の橋場近くに、下総の千葉氏との戦に備えるため長橋三条を作ったとする記録があるようですが、それがどのようなものだったか、詳しくはわかりません。知っている方がおられれば是非ご教示願いたい。

道灌は優れた武将であったとともに、文化人でもあったようです。よく知られている山吹の逸話などは、そんな道灌の一面を伝えているものです。器が大きかった余りか、主君の上杉氏に疑念を持たれ、藤沢あたりに呼び出されて殺されてしまいました。

この頃の隅田川については詳しくはわからないのですが、利根、入間の両河が合流していたとする記録があります。歌僧尭恵の日記「北国紀行」の中にある次のような記述です。

「二月の初め、鳥越の翁、艤して角田川に浮かびぬる、東岸は下総、西岸は武蔵野に続けり、利根、入間の二河落ち合へる所に、かの古き渡りあり、東の渚に幽村あり、西の渚に孤村あり、水面悠々として両岸に等しく、晩霞曲江に流れ、帰帆野草を走るかと覚ゆ、筑波蒼穹の東に当たり、富士碧落の西にありて、絶頂はたえに消え、裾野に夕日を帯ぶ、朧月空に懸かり、扁雲行き尽くして、四域に山なし、」

二つの河はどこで交わっていたのでしょうか。利根川にしろ、荒川にしろ、関東地方の真ん中を流れており、長い歴史の間では流路を変えたこともなかったとはいえませんが、それにしても、利根、入間の二つの河が合流したとすれば、かなり規模の大きな河になったに違いありません。また、荒川は利根、入間両河の中間を流れているわけですから、上記の記述が事実通りとすれば、入間、荒、利根の三河が合流して隅田川になっていたと、結論付けることができます。

この記述がなされたのは、道灌が暗殺された年(1486)です。その約100年後に、家康が江戸に入府するわけですが、そのときの隅田川を巡る状況は、第一章で紹介したとおりになっていました。

尭恵と同じ頃、道灌を頼って江戸を訪れていた人がいました。後に天台の高僧となる道興です。彼は若い頃日本各地を訪ね歩き、その記録を廻国雑記という書物に残しました。そのなかで、隅田川の川辺近くを舞台にした面白い伝説を書き記しています。本題とは離れるかもしれませんが、興味深いので紹介してみましょう。

「中比のことにやありけん、なまざぶらひ侍り、娘を一人もち侍りき、容色おほかた世の常なりけり、彼の父母、娘を遊女に仕立て、道行く人に出でむかひ、彼の石のほとりに誘ひて、交合の風情を事とし侍りけり、兼ねてより合図の事あれば、其折を計らひて、彼の父母枕のほとりに立寄り、伴寝したる男の頭を打砕きて、衣装以下の物を取りて、一生を送り侍りき、」

娘は自分の行いを罪深く感じ、ある夜、男に装いを変えて石の枕に横たわりました。何も知らない親たちはいつものように寝ている男の頭を割って、褥をはいだところ、実の娘を殺してしまったことに愕然とし、深く罪を悔いたという話です。

世に浅茅が原伝説として人口に膾炙している話です。同じような筋の話は、謡曲の安達が原という物語にもあり、街道を旅する者たちを狙った賊の話は、この時代広く普及していたものと思われます。

浅茅が原は浅草周辺とされています。当時そのあたりは、蘆荻の生い茂るすさまじい場所だったのでしょう。






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