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明治以降の東京臨海部の埋立:東京の川の歴史



東京臨海部の埋立地 東京都港湾局資料を加工
 
上図は明治以降における東京臨海部の埋立によって新たに出現した陸地の部分を示しています。この100年余りの間の度重なる埋立によって,海岸線が次第に後退し、臨海部の土地が拡大してきたさまが一目瞭然に理解されます。

明治以降の東京湾の埋立には3つのパターンが認められます。次に示す第2の図によりながら、それらの埋立の経緯をみていきましょう。


昭和前期までの埋立経緯 東京都港湾局資料

隅田川及び東京湾の浚渫

第一は、隅田川口の浚渫によって生じた大量の土砂を処分するため埋立造成を行った結果、新たな島が生じたというものです。明治初年の月島や、大正から昭和初期にかけて行われた大規模な埋立地造成工事がこれにあたります。

明治の初期,隅田川口には土砂が堆積して水深が浅くなり、船舶の航行が難しい状況が生じていました。そのため、大規模な浚渫工事が行われ、これによって発生した大量の土砂を利用して、佃島周辺の浅瀬を埋め立てたのです。こうしてできたのが月島の東半分でした。明治30年頃のことです。

隅田川口の改修工事は大正末期から昭和初期にかけてさらに大規模に行われました。月島の西半分や晴海、江東区の辰巳から豊洲に及ぶ一連の埋立地がこのときに生まれました。

港湾整備のための埋立

第二は、昭和30年代後半から40年代にかけて行われた埋立事業です。この時期日本は高度成長期を迎え、首都東京の経済基盤を一層強化するため、東京港の港湾機能強化が求められました。

この要求に応えるため大規模な埋立造成が行われ、新たな埋立地に物流拠点としての埠頭が次々と整備されました。有明や青海また京浜地域の埋立地などがこれにあたります。

ごみの埋立処分

第三は、ごみの埋立処分です。東京は江戸の昔からごみを海面に埋め立てて処分する伝統を有していました。昭和の高度成長期に入ると、大量消費・大量廃棄の現象が顕在化し、家庭や企業からでる大量のごみを、せっせと東京湾の埋立地に運び続けました。

今日新木場と呼ばれる14号埋立地や夢の島と呼ばれる15号埋立地は、このようなごみを埋め立ててできた「ごみの島」です。現在では、中央防波堤を挟んだ内側と外側がごみの埋立の新たな舞台になっています。

また、羽田空港は、もともと多摩川口のデルタ地帯にあった葦原の浅瀬を埋め立て、今日のような規模まで拡大してきたものです。

上図から見られるとおり、東京は埋め立てによって広大な規模の新たな土地を得ました。しかしその半面、自然の海岸線を失うという犠牲を払ってきたのです。

現在、有明や青海などの臨海部埋立地には新たなビル街区が出現しつつあります。東京都の港湾当局の青写真には、将来この地域にはマンハッタンに比肩しうるような高層ビル街区が出現することになっています。




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