雨ニモマケズ:宮澤賢治の自戒の言葉
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「雨ニモマケズ」で始まる、宮沢賢治のあの有名な文章は、詩という形で書いたのではなく、賢治が自分自身に言い聞かせるための、自戒のようなものとして書いたものだった。賢治はそれを死の前々年の秋に手帳に書きとめ、そのままかばんの一隅に詰めていたものを、弟の清六が賢治の遺品を整理している最中に発見した。いきさつからして、いわくのようなものにつつまれている。
この作品は戦前の学校の修身の教科書に載せられ、戦後になっても国語の教科書に載せられ続けて、日本人なら誰でも一度は読むことになった。賢治が今日国民作家と呼ばれるようになる所以は、多くこの作品のうちに懐胎しているといってよい。
だがこの作品の扱われ方は、かならずしも賢治にとって意にかなうものではなかったといってよい。
この作品の中には、疑うべくもなく自己犠牲の精神が歌われている。戦前の軍閥政府はこの自己犠牲の精神を、国民を戦場に駆り立てるための道具として使った。雨にも負けぬ丈夫な体を作り、一日に玄米四合と粗末なおかずを食べ、人々のために献身的に尽くしたいという賢治の志は、軍人の手本にもなるものだった。賢治がこの言葉に込めた自己犠牲あるいは献身の精神は、容易に愛国精神へと転嫁させられたのである。
戦後の日本も、賢治のこの言葉を利用したといえる。焼け跡の中に立ち上がった国民に、質素と堅実を呼びかけ、一日も早く国が復興できるよう、献身的な努力を求めるうえで、これほど相応しい言葉はなかっただろう。
GHQはこの文章の中にある一日四合の米という表現を三合に改めさせた。敗戦国日本の飢えた人民に、一日四合の米を食わせるだけの余裕がなかったからだといわれる。それでも国民は一日三合にも足らない米に雑穀を足し、甘んじて復興に邁進したのだった。
だが賢治がこの文章を通じて本当に目指していたのは、他人に対する呼びかけなどではなく、自分自身に対する戒めだったのだと思う。
この文章は「雨ニモマケズ」にはじまり、つぎつぎとあるべき姿を並べ立てて、最後に「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と結んでいる。それらのあるべき姿とは、賢治がそうありたいと思いながら、そうはなれなかった姿、そうあればこの世に生きていることが何がしか意味を持つべきだったはずなのに、そうはなれなかったために悩み続けてこざるを得なかった、そういう類のものである。
だからこれは賢治の痛恨の思いを込めた言葉なのであり、もしもこれからも生き続けることができるなら、是非実行したいと思ったこと、あるいは死んで他の世界に生まれ変わった後でも、忘れずに実行したいと思ったことなのである。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
賢治が最初にいうのは、自分の体へのこだわりだ。賢治は少年期から青年期にかけて死にそこなうような病気にたびたびかかった。それがもとで看病していた父親までが病気にかかった、体が弱いということは、ただ単に自分の生き方を制約するにとどまらず、他者まで巻き沿いにすることがある。ましてそれが愛する肉親だったら、こんなにもつらいことはない。
賢治の自分の病身へのこだわりは、他の作品にも随所にこだましている。「ポラーノの広場」の中で、仲間たちがキューストにもユートピア作りへ加わるように進めたとき、キューストは体が弱いことを理由に、この楽しい試みを断念せざるを得なかった。つまり「丈夫ナカラダ」をもつことは、この世に生きることにとって、なによりも優先すべき大切なことがらなのだ。
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
丈夫な体を持った上で、次に大切なことは、穏やかに生きるということだ。欲を持ってはいけない、欲をもつことは他人を道具に使うことにつながる、そして決して怒らず、いつも静かに笑っていられるような、心の平静さをもたなければならない。
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
粗食によく耐え、無欲でいることが大事なことを、賢治は重ねて言う。一日四合とは、米が主食であり続けた日本の食文化において、長い間成人ひとりが一日に食べる米の量の標準だった。
今日の感覚から言えばずいぶん多いように思えるが、それは現代人が多くの副食を取っているからだ。賢治の時代にあっては、多くの人々は米のほかに粗末なおかずを、それも少量とっていたに過ぎなかった。腹を満たしてくれるのは、基本的には米であったのだ。
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
そんな賢治の住まいは、野原の中の粗末な小屋でよい。そこでなら死んだ妹の遺影を眺めながら、仏の教えに耳を傾け、過不足なく暮らしていける。そして東西南北四方に何か困っているひとがあれば、助けにいくことも出来る。
人を助けに行くというのは、見返りを期待するものではない。それは自分自身の生き方そのものなのだ。見返りを期待するとき、人の行為は純粋な性格を失う、ただ単にありがとうと感謝の言葉を述べられるだけであっても、それは一種の見返りの性格を帯びる。与えることに与えられる効果が響きあうと、それは純粋な贈与ではなく、交換というものに堕落する。
だから純粋な贈与を心がけるならば、見返りを期待してはならない。これが賢治の理想とするありかただ。ここからこの文章の真髄ともいうべきものが導き出されてくる。
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
賢治が理想とするのは、みんなに「デクノボー」と呼ばれるような存在になることなのだ。「デクノボー」は決して自分の行った行為を感謝されることがない。彼のする行為は、当たり前で気に留める価値もない些細なことなのだ。だが純粋な贈与とはこんな性質のものなのだ。自分はだからデクノボーとして、言い換えれば空気のようなものとして生き続けたい、
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
そうだ、そういう空気のような存在に、賢治はなりたかったのだ。空気として、あるいは「すきとほった風」として、この世を吹きぬける。風が吹き抜けた跡にひとは何者をも感じてくれないかもしれないが、さわやかな風を糧にして生きる力を感じるかもしれない。それでいいのだ。
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
賢治という風が吹き抜けた後には、風の去った方角から、あるいは思いがけないところから、あるいは天上の世界から、法華経の尊い言葉がこだましてくるだろう。
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