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加藤周一のサルトル観


加藤周一はサルトルを高く評価していた。サルトルについて、色々と語っている。その加藤のサルトル評価のありようを「サルトル論」といわず「サルトル観」というのは、加藤がサルトルを語る場合、サルトルの思想を問題にしているのではなく、その生き方を問題にしているからだ。サルトルは「考える人」であると同時に「心温かき人」であった。世の中にはそのどちらかの素質を備えた人はいても、両者を兼ね備えた人はなかなかいない。サルトルはそうした稀有な人なのだと加藤は言って、サルトルの生き方を高く評価するのである。だから加藤のサルトル観は、「考える人」の面よりも「心温かき人」の面により重心を置いている。サルトルはただの思想家ではなかったというわけである。

加藤がこう言うわけは、彼自身サルトルと親しく接した体験から出ている。サルトルがボーヴォアールと一緒に日本を訪れたのは1966年のことで、その時初めて加藤はサルトルと接した。かれはサルトルを囲んだ座談会に出席したことがあり、それがテレビで放映されたのを、当時高校生だった小生も見たことがある。その際のサルトルは、日本の知識人の問いに対して丁寧に答えていた。知識人がフランス語の語彙に躓いた際には、それは「スポンタニエテのことでしょう」と自分から助け舟を出す場面もあり、それを見ていた小生は、サルトルというのは頭の回転が速い人だという印象を受けたものだ。ともあれ、その座談会を皮切りに、加藤はいろいろな機会を作ってサルトルと直接語り合い、かれの人間性にひかれていったものと見える。

サルトルの生き方は、哲学よりも文学作品により強く反映されていると加藤は考えている。かれがサルトルについて語るとき、言及の対象となるのは「存在と無」ではなく、一連の文学作品である。そこにあらわれたサルトルの姿勢は、アンガージュマンといわれるようなものである。アンガージュマンとは、「参加」と加藤が訳しているとおり、世界と積極的なかかわりをもつという態度である。そうした態度をサルトルは「アンガージュ」と呼ぶのだが、「アンガージュ」とは「自己に責任を負う」ということである。自己に責任を負うというのは、サルトルの場合世界と積極的にかかわるということを意味する。そうした責任を負わない「作家=知識人」をサルトルは、「娯楽作家」か「逃避作家」といって非難する。

サルトルはまた、そうした「作家=知識人」を、「人間の条件と世界の現実を覆い隠す『にせ知識人』」と呼び、かれらが科学的な客観主義をもって支配階級に奉仕し、支配階級の特殊なイデオロギーを弁護するのに、「にせの普遍性」をもってするといって批判した。サルトルによれば、平和一般(にせの普遍性)の要求は、実は全く平和を望まないというに等しい、ということになる。そのサルトルの指摘は、21世紀の今日においても妥当性を失わないであろう。ともあれ、「にせの普遍性」についてのサルトルの主張は、レヴィ=ストロースとの論争を想起させる。レヴィ=ストロースはサルトルにおけるマルクス主義的傾向を問題にし、サルトルの歴史主義に対して超歴史的な普遍主義を掲げたのであったが、この論争が水掛け論に陥ったことを脇へ置くとして、サルトルがレヴィ=ストロースに「にせ知識人」を見たのは間違いない。

加藤はサルトルを、同時代におけるもっとも偉大な知識人と見ていた。かれはサルトルを、基本的には文学者としてとらえ、その文学の意義を、かれが生きている世界への「反抗ではなくて批判、逃避ではなくて創造」にあるとしたうえで、現代の文学とは「伝統を踏まえたCounter culture である」と定義し、サルトルの著作の全体は、「まさにそれが文学であるという理由そのものによって偉大だということになるだろう。彼は常に具体的・特殊的な状況を通して、世界の普遍的な構造を見ようとしていた」という(「文学の擁護」)。

ここで、サルトルの「心温かき人」の側面にもどる。これについては、加藤がサルトルから受けた個人的な印象がものをいう。加藤は言う、「心温かきこと彼の如き人を、わたしはほとんどほかに知らない」と。「相手が誰であっても、また用件がどれほど重要であっても、なくても、基本的に他人に対する態度は、かわらない」。しかもサルトルは「彼自身を例外としない」。そういう態度を、日本語では公平無私というのだろう。公平無私の人は非常にまれである。そのまれな人を目の前に見て、加藤は人間として深い共感を抱いたのであろう。

加藤が、「サルトルの知識人論」をはじめ一連のサルトル評を書いたのは1979年のことだ。その頃、日本ではサルトル・ブームは終わっており、サルトルは過去の人物になっていた。そういう時期にあえて、サルトルの偉大さを唱道したことには、加藤なりのこだわりがあったのであろう。加藤にとってサルトルは過去の人ではなく、かえって現在の世界を照らす灯台のような存在だった。1979年といえば、構造主義とかポスト構造主義といった、超歴史的な普遍性を標榜する「思想」が流行っていた時期だ。そういう時期だからこそ、サルトルはかえって有効性を失わないでいる。加藤がそう考えるのには、かれなりの世界認識が働いていたのであろう。




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