TOKYO
TOWNSCAPES

  


吉原・山谷・千住



吉原、日本堤、山谷などの浅草北部から千住にかけての一帯は、東京の発展から取り残されたような、沈滞したイメージがまとわりついています。この地域は、徳川時代には既に市街化され、近代以降も三業地や旅館街として独自の発展をしてきましたが、その歴史的な背景がかえってあだとなって、昨今の東京の街の変貌に乗り遅れたのかもしれません。

この地域の発展をまず方向付けたのは、奥州街道の存在でした。徳川時代初期、5街道の一つとして整備された奥州街道(奥州道中)は、浅草橋御門から花川戸をへて千住大橋へとのびていましたが、この街道沿いに次第に町屋が形成されていきます。千住大橋を挟んで南北両側の街道筋に千住宿が設けられ、また山谷堀の南側には日本橋にあった吉原の遊郭街が移転してきます。幕末近くには、花川戸北側の猿若町に、これも日本橋から歌舞伎小屋が移転してきました。こうして、浅草の北側に接する地域は、江戸随一の遊興空間として栄えました。

近代史においても、吉原は引続き三業地として栄え、昭和以降には吉原の北側にある山谷地域に旅館が集中し、いわゆる山谷のドヤ街が形成されました。一方、千住周辺には小工場が林立し、工業地域へと変貌していきます。

今日この地域を浅草から千住方向へ向かって歩いていくと、吉原に点在する風俗ホテル、山谷の街角に立ち並ぶ木賃宿群、そして千住大橋北側の旧街道沿いに残る蔵など、それぞれに歴史を背負ったさびた景色が交互に現れてきます。都心を中心に進行する東京のめざましい変貌振りとはあまり縁のないこれらの風景はしかし、見る者に不思議な安堵感をもたらすようなところがあります。(取材:2006年夏)

関連サイト:浅草漫歩 三社祭 千住天王祭







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