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有楽町・日比谷:東京風景写真 |
昭和30年代前半に、「有楽町で会いましょう」という歌が流行ったことがありました。フランク永井が低音で歌うこの歌の甘いメロディーは、当時復興に向かいつつあった東京の姿を象徴したものにうつり、多くの人々の心をとらえました。戦後の廃墟からなけなしで出発した東京の人々にとって、やっと都会生活にゆとりを感じることができるようになった頃でした。 あれから半世紀を経た今日、歌に歌われたそごうデパートはカメラの量販店に変わり、有楽町のシンボルであった日劇や宝塚の建物もすっかり様変わりしてしまいました。しかし、JRのガード下には昔ながらの飲み屋が生き残り、周辺には相変わらず興行施設が立ち並んで、遊興街としての性格は依然保ち続けています。都心部への人材や資本の集積が改めて大きなうねりを迎えつつある現在、有楽町のエンタテイメント・シティとしての存在感は、むしろ一層に高まりつつあるともいえます。 有楽町が興行街として発展するのは、昭和に入ってからです。都心にあって、西側には官庁街とオフィス街、東側には銀座の商業エリアが展開し、この両者に挟まれた有楽町界隈は人の流れの大きな結節点にあたっていたため、自然と興行街が形成されるようになったものです。 東京における伝統的な興行街といえば、浅草が都下随一の繁栄を誇っていましたが、資本主義の発展に伴い、東京が近代都市として成熟するに従い、有楽町界隈の比重が高まっていきました。 有楽町の興行街は、数寄屋橋を挟んで東西に広がりました。東側には日劇や宝塚が立地し、西側の日比谷地区には日生劇場や数多くの映画館が集まったものです。それらの殆んどは現在、再開発されたビルの中に吸収されてしまいましたが、それでもエンタテイメントの牙城にふさわしく、多くの人々をひきつけています。(取材:2006年春) 有楽町駅周辺 | ガード下 | 数寄屋橋 | 日比谷 |
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