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万葉の世紀(万葉集と大伴家持)

若い頃から折に触れて読み親しんできた万葉集。様々な注釈書の世話になったが、筆者が最も参考にしたのは、齋藤茂吉と北山茂夫だった。茂吉には鑑賞のコツのようなものを学んだ。北山茂夫は本業が歴史学者だけあって、万葉人の群像を古代史の文脈の中でとらえており、個々の歌を歴史的な背景に関連付けながら読み直している。そこが得がたい魅力にうつった。

北山説によれば、日本最古の歌集「万葉集」は、大伴家持という一官人の手によって集大成され、完成形を与えられた。全二十巻のうち、最後の四巻は家持自身が自分のために書きためた私的な歌日記である。

大伴家持は、彼以前に存在した様々な歌の資料(宮廷にささげられたものの記録や、柿本人麻呂歌集のような個人の歌集)をもとに、自分自身のための作歌ノート(歌集)を作っていた。名門の貴公子として、家持には宮廷周辺に存在したと思われるそれらの資料に触れる機会があったのだろう。家持は死後、同族のからんだ事件に連座して名誉を奪われ、家財没収の憂き目に会うが、そのときに作歌ノートも没収され朝廷の所有に帰した。これが万葉集として、世に伝わることとなったのである。

家持の選んだ歌は、冒頭の雄略天皇の歌などを別にすれば、最も古いもので七世紀後半、大化の改新以降のものである。また彼自身は、天平宝字三年(759)、正月を寿いで歌ったのを最後に歌わなくなってしまった。この間にあって、万葉集がカバーする時代は約100年間である。北山茂夫は、この百年を万葉の世紀と名づけた。

ちなみに、全二十巻、四千五百十六首のうち、冒頭と棹尾を飾るそれぞれの歌を、ここに紹介しておこう。

―泊瀬の朝倉の宮に天の下しろしめしし天皇の代 天皇のよみませる御製歌
   籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち
   この丘に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名のらさね
    そらみつ 大和の国は 
   おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 
   吾をこそ 夫とは告らめ 家をも名をも

冒頭の歌は、雄略天皇の国寿ぎ歌である。万葉集第一巻には、歴代の天皇の御製歌が多く集められている。これに対して、棹尾の歌は、家持自身が新春を寿いで歌ったものである。家持にとっても、万葉集全体にとっても、最後に歌われた歌となった。

   新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重け吉事
―右の一首は、守((かみ)大伴宿禰家持がよめる。

万葉の世紀百年を大雑把に時代区分すると、和銅三年(710)の平城京遷都を境にして、前期と後期に分けられよう。前期を代表するのは額田王と柿本人麻呂であり、和歌というものが形を確立する時期だと位置づけられる。後期は、山部赤人、山上億良、大伴旅人らによって代表される。かれらは、人麻呂の確立した和歌の伝統を踏まえて、それぞれに表現の幅を広げたといえる。

大伴家持は、平城遷都の数年後、古い武門の家大伴氏の支流佐保大納言家の三代目として生まれた。父旅人は家持が十四歳のときに死んでいる。この武門の家の父子が何故和歌の道に名を残すようになったか、詳しい事情はわからない。だが、家持は若い時期から歌の才能を発揮したらしい。一方、貴族の家の当主として、政治的な立身も目指したらしい家持は、橘諸兄などの権力者に近づいたりもしたが、政治的な面ではあまり器用ではなかったらしく、権力争いの狭間にあって、始終傍観者的な煮えきらぬ態度ばかりをとっていた。

こんなことから、彼の政治経歴は地方官が多く、中央の政治地図に大きな足跡を残すには至らなかったが、晩年桓武天皇の信頼を得て高官に上り、最後には持節征東将軍に任命された。武官としては、最高の名誉だったろう。しかし、死後に生じた藤原種継の暗殺事件に同族がかかわっていたことから、累が一族全体に及び、家持もまた死後にして除名されることとはなったのだった。

家持が旺盛な作歌活動を示し、また万葉集の編纂に取り組んだのは、越中国司時代だとされる。彼は29歳のときにこの任に赴き、数年間越中に留まった。この間に、彼は先人たちの残した業績を歌集として編纂すると同時に、身辺から集めた歌や、自ら歌った歌を精力的に書き溜めた。それらが、今日に伝わる万葉集として結実したのだと思われる。

大伴家持は、越中国司としては、何らの業績をも上げなかったようだ。だが日本の文学にとっては、この地での彼の活動が貴重な成果をもたらしてくれたのである。


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